2008.07.16

最果タヒ『グッドモーニング』を読む

7月7日。最果タヒの詩集『グッドモーニング』(思潮社、2007)を読む。今年の中原中也賞受賞作品だ。

きっかけはブログでつくる詩人名鑑に最果タヒのリクエストを頂いたことだ。まだ『現代詩手帖』を定期購読していた頃、投稿欄でしばしば最果タヒの名を見かけた。あるとき、ふと、「タヒ」を横書きにすると「死」に見えることに気付き、そのことが記憶に残っていたのだ。しかし当時の作品については印象に残っていない。既にボクが熱心な読者ではなくなってしまっていたからだろう。そんなわけで慌てて『グッドモーニング』を読んでみた次第だ。

支配されていたものに戻ってきて
いまこれを
かき始めている
視界と
言葉をひきはがして(「0」)

巻頭に収められた作品「0」の最初の一連を読んで、この詩集はウロボロスのような円環(=〇≒0)をなしているのではないかと、ボクは思った。ここから旅立ちここに戻る――この詩集は、著者の筆名から連想させられた最果て=死へのタビではなく、意外にも原点に回帰し再び生き始める旅であると、直感したのだ。しかし「yoake mae 1」から「yoake mae 5」と「good morning」の6章に収められた20篇の詩を読み終えたとき、ボクは、その直感はハズレだったと思い知らされた。「0」はそこから始まる「yoake mae」各章の作品群とこそ近しいものであり、最終章「good morning」の作品とは大きな隔たりがある。そこから「0」に立ち戻る回路は開かれていない。
わたしは、衝動に追い立てられて書くさいにきらめいて見えるこの世界をあいしていた。いつかそこにまた、帰りたいと、そして十代の経験に固執し、攻撃的でいなければ出会えないと、一年間思い続けていた。賛美すべきものは攻撃性ではない。うつくしさだ。そう思い出した瞬間、目の前の世界が、懐かしく鮮やかな色を帯びて広がった。(「あとがき」)

久しぶりに見たモネの絵をきっかけに世界は再び輝き始めたとする「あとがき」を読んで、ボクの直感もまんざらではなかったと思いなおした。やはり最果はこの世界に戻ってきていたのだ。例えば、真上から垂直に螺旋運動を俯瞰して見れば、それは平面上の円周をたどって幾度も同じ場所に回帰する円運動に見えるだろう。最果は再び十代の血を抱きしめている。しかし、それは同一平面上での出来事ではない。「0」から出発して「yoake mae」を巡り「good morning」に至る。そこは「0」と同じ世界だが次元が異なっている。それは最果にとっても予想外の出来事ではなかったか。
言葉にすることが
すべてを
台無しにし
わたしが
ここからでていくことを不可能にする(「0」)

最果が出発したのはこのような場所だ。十代の最果がどのような経験をしたのか、「yoake mae」の詩群はその経験を具体的には明かしていない。しかし、最果が自分を取り囲む世界を閉塞感に満ちたものとして受け止めていたことは、はっきりと感じられる。最果は抗いがたい衝動に突き動かされて、その世界を攻撃的な言葉で描く。世界はそのとき思いがけない輝きを示すが、そこに出口が見えていたわけではない。攻撃的な言葉を重ねることで攻撃的な姿勢は一層強固となり、閉塞感もますます強くなる。むしろ最果は、言葉に、詩に幽閉されていると感じていたのではないか。
体が
わたしになにかを
見せることを拒否しているが
わたしをまだ
殺させはしない(「0」)

最果が旅立った場所と辿りついた場所との違いを示唆するヒントがここにあるように思われる。ここには「体」が「わたし」を拒否していると書かれているが、ボクには同時に「わたし」が「体」を拒否しているように見えるのだ。この文章は、「体」が「わたし」を殺そうとしているのか、「わたし」が「体」を殺そうとしているのか、どちらともとれるような構造を持っている。ボクは最初、どちらなのだろうと頭を悩ませたが、よく考えてみれば同じことなのだ。「わたし」が「体」を殺すことも、「体」に殺されることも、いずれも結局は自殺に他ならない。それを押し止めているのは「わたし」なのか、「体」なのか、これもまた決して分かちえないことだ。

少々、「0」に長居しすぎたようだ。「yoake mae 2」に移ろう。この章でまず目を引くのは、「/」や「+」、「*」などの記号が多用された、散文詩とも行分け詩とも言い難い独特の詩形だ。なかでも「苦行」はミスタイプを思わせるような無意味な字句を意図的に並べる等、ペンではなくキーボードで書かれた詩ならではの表現が目立つ。

   わたしの、素肌、を舐めるより 確実な
わたしの
     味
       です。ですますます。べつに
     詩人 *
ですからうまれたときから表現者ですからべつに
べーつーにー
いいです
     愛さないでも(「苦行」)

「苦行」の最後に置かれたこの詩句は、率直な心情の吐露とも自己戯画化を企図した諧謔ともとれるが、いずれにせよ読み手のこの作品に対する評価、毀誉褒貶を左右する箇所だ。ここで、最果は、愛されない肉体を抱えた孤独感を裏返し、自分の肉体は真の自分ではなく、肉体を愛されるくらいなら愛されなくて結構だと、肉体と他者とを激しく拒絶している。「yoake mae 2」から「yoake mae 3」の詩群には、このように自分の肉体と他者とを拒み自我に内閉するような趣きを持った作品が多い。

「yoake mae 4」に至ると変化の兆しを感じさせる作品が登場してくる。妊娠を主要なモチーフとした作品「死なない」である。

わたし、
妊娠して、
祝ってください
祝ってください窓からでもいいから開けて、こちらを、
みてください、妊娠したんですよ、わたしは妊娠したんですあなたたちの、あなたたちのかぞくを
う、

うむんですよ。(「死なない」)


妊娠のモチーフは「yoake mae 3」の「非妊」にも登場するが、ここではまだファンタジックな空想の色彩が強く肉体を受け入れた様子は感じられない。「yoake mae 4」の「博愛主義者」でも妊娠が取り上げられているが、「私」は妊娠を受け入れることができず、むしろその原因となった「女みたいな顔して、あなたをまっていた」ことを悔やんでいる。肉体と他者とを受け入れかけたことを悔やみ、いっそう激しく拒絶しようとしているのだ。しかし「死なない」では妊娠は祝うべきこととして捉えられており、それどころか出産によって「あなたたち」との間に「かぞく」という回路を開こうとさえしている。
きっと
捨てられています・・
かぞく ですから(「死なない」)

この大胆かつ強行な転回を目指した目論見はこの作品では成就しない。だが程なく夜明けを向かえ「good morning」の章で実現されることになる。
日にやけてずるずるになった肌が泥になって、
それを洗い流して銭湯
に入る
子供達が何人も、先にあたたまりながら、
わたしはその真ん中でおんなじぬくもりで温まるよ
そう、だね(「再会しましょう」)

自己と他者とが「おんなじぬくもり」を媒介にして繋がりあっている。直接触れ合っているわけではないが、肌と肌、肉体と肉体とを通じて回路が開かれた感がある。寒々とした言葉を旅してきた者にとっては、ほのかな灯りがともったように感じられる詩句だ。「good morning」の冒頭に置かれたこの作品はタイトルからして既に他者への拒絶を解除し自己を開き放ったことが示唆されている。この章には「再開しましょう」の他に「きみを呪う」と「世界」との3作品が収められているが、いずれの作品においても世界は危機的なものとして描かれている。しかし「yoake mae」各章の詩群で顕著であった閉塞感は感じられない。それは、最果の世界に対峙するその姿勢に大きな変化があったためと思われる。

世界は依然として危機的であり同時に「うつくしい」。だが、最果はもう自我の内側にうずくまろうとはしない。無限螺旋階段の新たな高みを目指して世界のただ中に打って出ようとしている。ボクにはそのように感じられるのだ。

人と人の間を疾走している。きみたちはわたしたちをなんと呼ぶ? 名前がない間わたしたちは疾走をしている。そうして竜巻をつくりあげていく。きみたちをめちゃめちゃに切り裂きながらわたしたちはああ孤独だと
叫んでいる。(ああ)

(うつくしい世界)(「世界」)


久しぶりに現代詩を、しかも新進気鋭の若手の作品を読んで、自分の帰る場所はやはりここにしかないと痛感させられた。たとえそれが世迷い言であっても構わない。ボクのような世迷い人はいつまでも世迷い言を書き連ねてゆくほかはない。例えそれが無限に続く螺旋階段であったとしても、いや同じ円周の上を這いずり廻ることでしかなかったとしても……。

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2008.07.07

矮猫亭・2003年1~3月

古い日記の再掲載、今回は2003年1~3月。年が改まっても緩めの詩モード、俳句モードは続いている。加えて登場してきたのが映画話。2月に登場する「少林サッカー」は息子の大のお気に入り。ブックオフでDVDを購入し今でも時々観ているようだ。人情喜劇が好きなところはボクに似たかな?


謹賀新年 2003/01/07

明けましておめでとうございます。お正月はいかがお過ごしでしたか?私は今年も特にどうということのない正月でした。ただただのんびり。それが何よりです。

でも歩くことはサボりませんでしたよ。2日には小江戸川越七福神めぐりをしました。去年も山手新宿の七福神めぐりをしており我が家の正月恒例行事になりそうです。

皆さんにとって佳い1年になりますように。


初ハイク、俳句ではなく 2003/01/15

三連休はいかがでしたか?南関東は暖かく穏やかな日が続いて絶好の外遊び日和でしたね。私は家族そろってハイキングに出かけました。能仁寺から天覧山に登り、多峯主山まで足を延ばす。帰りはふもとの吾妻峡に立ち寄りました。それほど時間も掛からないし、危険な場所もないので正月でなまった体を軽くいじめるにはちょうど良い具合でした。

天覧山も多峯主山もなかなかの賑わいでしたが八幡さまを通って吾妻峡にくだる道は貸しきり状態。飯能駅に戻るには遠回りになるため人気がないのでしょうか。

実はこの道は八幡さまの参道です。重機などなかった時代に道を開き石を積んだ人々の想いが偲ばれます。八幡さまの小さなお社には日めくりが掛かっていました。誰かが毎日お参りしているのでしょう。日めくりはちゃんとその日の日付になっていました。古人の想いはちゃんと受け継がれているのですね。胸にぽっと暖かい火の点った感じがしました。この暖かさ。少しの遠回りくらい、どってことないです。


ケビンとメグ 2003/01/16

年末から年始にかけて映画を2作品見ました。といっても両方ともテレビですけどね。

1つは「告発」(1994米)。ある刑務所で実際に起こった囚人虐待事件が題材になっています。囚人役のケビン・ベーコンの演技が印象的。★★★★☆かな。

もう1つは「フレンチ・キス」(1994米)。フランスを舞台にしたラブコメです。景色がきれいなのと主演のメグ・ライアンが可愛いのが取り柄。ちょっと辛目かもしれませんが、★★☆☆☆ってとこでしょうか。

今年こそたくさん映画を見たいものです。


久しぶりに創作ノートから 2003/01/24

毎日、通勤の途中、一駅分、歩いています。これでも少しは健康も気にしているのです。で、その中で経験したことを元に書いてみました。まだまだ素描の段階です。しかも一向に動き出す気配がない。う~む。

その女はいつの間にかに現れて、いつも私の前を足早に歩いてゆく。私だって運動のために歩いているのだから、かなりのスピードのはずだが、女の歩く速さは次元が違う。殆ど走っているかのようだ。

私はその速さに魅せられる。彼女を追ってゆかずにはいられない。汗が額を濡らし、膝の裏やふくらはぎの辺りが痛くなってくる。それでもついていくのがやっとだ。追いこすなんてとてもできない。

十五分ほど歩くと私の持ち時間は尽きてしまう。乗り換え駅のその次の駅が右手に現れ、私はそこから地下鉄に乗らなければならない。女はそのまま真っすぐ進む。ついに女の顔を見ることはできない。

汗をぬぐいながら乗りこむ電車は西へ向かう。薄暗がりに続くコンクリートの壁。女もあのまま西を目指しているのか。頭上から響く足音。いつまでも終わらない歩きの時間。


八国山でのんびりのほほん 2003/01/31

先週末は久しぶりに八国山に行って来ました。東村山と所沢の境にある100メートルほどの丘です。関八州が一望に出来たところから八国山と名づけられたそうですが今はかつてのような眺望は望めません。鎌倉時代、源氏と争った新田義貞が陣を張ったとのことですがトトロに出てくる七国山のモデルと言う方が私には馴染み深いです。麓の北山公園は花菖蒲で有名。ザリガニも採れるらしい。気楽にのんびりしたい時には良いですよ。

帰り道、ささやかな梅林の木々の芽が思ったよりも膨らんでいました。春、遠からじ、です。頑張りましょう。

追伸 ↑をアップしようと思っていたら風邪引いてしまいました。インフルエンザも流行っています。ご用心。ご用心。


少林サッカー(2001 香港) 2003/02/10

もう一度みたい。と、息子がしきりに言うので「少林サッカー」を借りてきました。なるほど、面白い。笑いに笑ったし、ちょっとホロリとさせられたり、手に汗握るシーンも。そして、何より、この不思議なテイスト。何なんでしょう、これは。チャウ・シンチー(主演・脚本・監督)の作品は始めてでしたが他の作品も見てみたくなりました。

という訳で、やや甘めながら★★★★☆。


インフルエンザ 2003/02/17

流感や早退けの背に陽のそそぐ

今年最初の句作です。風邪で早退したときのことを詠みました。本当はインフルエンザではなかったのですが、多少、演出しちゃいまいした。

ところでインフルエンザはそろそろ山を越えたのでしょうか。いずれにせよ、用心するに越したことはなさそうです。


創作ノートから 2003/02/17

十二月が生まれたのはどこだろう
そして死ぬのは

去年今年貫く棒を抱いて夜更けの道を歩む
凍りつくまいとする泉の軋むような音が聞こえる


いま動かそうとしているネタです。二行一連を積み重ねて、連鎖的にイメージを飛躍させてゆく。そんな方法でやってみようかと考えています。ちなみに「去年今年貫く棒」は高浜虚子の句から引いたもの。年が変わろうが変わるまいがそんなことにはお構いなしの何かが、人には、人の暮らしにはある。虚子はそう言っているのだと思います。何だか、深いですよね。


十二月よどこへ行く?―創作ノートから― 2003/02/19

十二月が生まれたのはどこだろう
そして死ぬのは

去年今年貫く棒を抱いて夜更けの道を歩く
百八回目の鼓動のうしろに獣たちの気配がにじむ

湧きあがる泉の薄氷を軋ませる音
冬納めの日まで絶えることのない微かな響き


このネタ。少しずつですが動いています。どこに行き着くのか未だ見えませんがなんとなくモノになりそうな気がしてます。


新作です 2003/03/05

いじめ子もいじめられ子も雛の前

けんかくらいはしてもいいけどいじめたりいじめられたりは嫌ですね。みんな仲良くせぇよ。


伝統について 2003/03/07

伝統ということについて考えています。昨年は何故か俳句が非常に気になって実作も試みました。その流れということもないわけではありませんが俳句に惹かれたのは何か理屈があったわけではありません。

伝統ということを考えるようになった直接的なきっかけは大岡信を特集した先月号の現代詩手帖です。大岡は歌人を父に持つこともあってか日本の古典文学にも精通し優れた評論をいくつも残しています。それらの評論は歴史の一時点を切り取って回顧するものではなく千年を超えて現代にまで通じる流れを意識し現代詩が如何にあるべきかをめぐる思考へと繋がっています。大岡はそうした思考を実作においても実践しています。それは名高い連句や連詩の試みばかりではありません。

続いて紐解いたのは辻井喬の『伝統の創造力』(岩波新書.2001)です。辻井は、日本の現代文学、なかでも現代詩が衰弱しているのは伝統に根ざしておらずまた伝統を築き伝えてゆく意識がないからだと言います。伝統は歴史のある時点に完成しそのまま変わることなく受け継がれる静的なものではない。歴史の流れとともに変革を繰返しながら活き続けてゆく自己生成体である。そうした伝統の持つ創造力が働いていないと説いているのです。

現代詩が古典文学の恩恵を全く被っていないとは思いません。しかし個々の詩人の仕事と伝統との間にインテラクティヴな影響関係が成立しているとも、きっぱりとは言い難い。さぁ、ここからは自分の課題です。伝統とどのように向き合いその創造力を如何にして自分の創作活動に取り込んでゆくのか。じっくり考え、実作の中で答えを見つけてゆきたいと思います。


あと2点! 2003/03/10

先日ご紹介した拙作「いじめ子もいじめられ子も雛の前」が俳句三昧で4点を頂戴しました。3ヶ月ぶり2回目の高得点。あと2点で3級に進級です。


開戦の報に接し 2003/03/20

旧作の再掲を以って抗議の意を表します。一秒でも早い終結を祈念致します。

   この赤いのは

ああ血だ、この赤いのは血なんだ、のんきなペンキなんかじゃなく動物が生きるために使用すべき血液なんだ、それがむやみやたらと流され無差別に流されありあらゆる時代にありとあらゆる戦場に流され、泥に混じり糞尿に混じって草を枯らし土を腐敗させ、しかもそれはひげをそってて想われニキビにかみそりがひっかかったのではなくゴール前でスライディングタックルしてすりむいたのでもなく、銃弾や爆風や放射線や爪や牙や角や妙な形の脳みそや薮睨みの眼球が皮膚を破り心臓を押しつぶし胃腸肝臓膀胱をひっかきまわしてぐにゃぐにゃにして流れた血なんだ、それがマラリア色の難民の眼の中にべっとりと流れ込んでしみてしみて眼をこすりつつ台風一過の青空と自衛隊の軍用飛行機を眺めて平和な反戦デーだと思う心にぽとりと滴り、いもりの黒い影がアジア中をうろつきまわる、血だ、この赤いのは血が流れ流されどくどくあふれふきだし恋人達を黙らせ愛撫される乳房を痩せさせ俺のノートを下手な文字で汚し、それでもまだ飽きたらずに流れあふれて人と人の腹の中のサナダムシと人の足の下の地面を醜く一色に染めて殺し殺され滅んでいくものの泣き声を軍靴の音でかき消してしまうのはこの赤いねばねばした血液なんだ


ハンニバル(米、2001) 2003/03/26

日曜洋画劇場で「ハンニバル」を見ました。面白いことは面白いのですが「羊たちの沈黙」には及ばないかな。テレビだってことを差し引いても、あれほどではないかなと。と言う訳で私としては★★★☆☆です。

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2008.07.04

梅原猛の『日常の思想』を読む

6月27日。梅原猛の『日常の思想』(集英社文庫、1986)を読む。本書は1960年から73年にかけて新聞や雑誌に掲載されたエッセイ34篇を収めたものだ。「日常の思想」・「哲学の小経」・「現代文明への問いかけ」の3つのパートに分かれているが、真理の発見への情熱と現代社会への危機感が本書全体を貫いている。

「真理は手近に隠れている」。私は一生、手近に隠れている深い真理を求め続ける旅人でありたいと思っている。(自序)

梅原は日本の哲学なるものは「あまりに深遠すぎ、難解すぎるのではないか」という。それは「一見意味ありげな言葉で内容の空虚を隠す」ものであり、むしろ「日常の世界の言葉を、誰にも分かるように語」るべきだという。
私は多くの創造者のどこかに小児の心をみるが、それは彼らが小児的性格の持主であるというより、やはり彼らは何ものにもとらわれない心をもっているからであろう。小さい欲望や感情にとらわれていたら、とても創造は不可能である。とらわれた心は、自分自身のものをみる眼を限定し、ものの真の姿をみる眼を自ら失ってしまうのだ。(創造について)

梅原にとって日本の哲学は、「哲学」らしさ、アカデミズムにこだわる余りに、真理を捉える眼を失っていると映っていたように思われる。「発見とはその色眼鏡から自由になることである」とする梅原にとって、そうした哲学は、「哲学」という「色眼鏡通じて、ものを見ている」ことに他ならないと考えていたのであろう。

こうした梅原の真理発見へのラディカルな姿勢は真理そのものへの愛に支えられていたようだ。

10 発見や真理を可能にするのはたえざる認識の努力であり、それを可能にするのは、やはり真理あるいは美に対する強い愛である。(「発見」についての覚え書き)

しかし梅原はこうも言っている。
すべての思想は、自己の中なる大きな傷口から生まれるのである。(覆面の思想)

梅原にとって「大きな傷口」とはなにか。それは現代社会への危機意識、現代文明への批判精神であり、それらへの処方箋を描ききれていない自分への苛立ちであったようだ。
現代文明、技術文明の破綻は、おそらくはほぼ決定的であると思われるのに、私は一人の思想家として、この破綻をのがれる明瞭な理論的解決をもち合わせていない(現代文明の悔い改め)

梅原が本書で指摘する現代社会・文明の危機は既に30年が経過した今も古びておらず、その克服は依然として今日的な課題である。
しかしニーチェやロレンスの警告にもかかわらず、肉体はますます労働や戦闘から余計なものとなってゆくのが文明の傾向である。やがて、肉体の構造そのものが、労働する肉体から享楽する肉体に変化してゆくであろう。やがて、頭、胃袋は現在の三倍、性器は現在の五倍もある人間が誕生するかもしれない。(スポーツの思想序説)

私には、ドストエフスキーの予言の方向に、時代は徐々に進行しているように見える。それは聖化された殺人の方向である。今日若者たちは、殺人にほとんど聖なる感激を覚えるかに見える。(ドストエフスキーの予言)

明治時代は、私は、科学のために宗教を否定した時代であると思う。昭和時代は、私は、生産のために道徳を否定した時代になるのではないかと思う。(道徳の死)

現代人は、人を愛するには余りに忙しいのである。彼にとっては時間は、現在しかなく、未来の死などはなく、空虚感はあるが、真の孤独感はないのである。こういう現代人は、愛することが出来ずに、セックスだけをするのである。(愛について)

現代文明は、おのれの思惟と物質の力にたいして絶大な自信をもって、おのれの死を忘れている。そして人間の思惟の力は無限であるという信仰や、物質は永遠に弁証法的に発展するという神話を信じつつ、破滅への道を直行しているように見える。(死を忘れた文明)

私は過去百年間、日本人をささえた価値観は、そういう勤勉ー繁栄ー進歩という価値観であったと思う。(中略)むしろ、このような価値観の上に育った文明そのものが、このような価値観に対して懐疑を投げるのである。(余暇)


梅原は、今日われわれが危機に直面しているのは現代文明の原理が持つ問題点が露呈したためであるとしている。
現代文明は、三つの原理をその内面に秘めている。
(1)自然を支配するのは善である。
(2)生産力をあげるのは善である。
(3)欲望を満たすのは善である。
(中略)しかし、今やこの文明は壁にぶち当たった。その文明のもつ三つの善が、少なくとも、この三つの善の絶対化がはっきり誤りであることがわかったからである。(現代文明の悔い改め)

そして、この危機から脱却するにはこの三つの原理を「根本否定」するほかないとする。
人間は、二つの原点にもどるべきである。一つは自然という原点である。(中略)人間同士ばかりではなく、人間と他の生物が共になかよくやってゆく共存の思想を、人間中心主義のヒューマニズムの思想にとって代わらしめなければならない。(中略)もう一つは、文明は、欲望を越えた何らかの精神的目的をもたねばならないということである。(無明の長夜)

しかし、その実現について梅原は悲観的だ。
私は、もう人類の深い内的悔い改めしか、人類の再生はないように思うのであるが、人類に内的悔い改めが起こるのは、もう人類がどうにもならない状況に追いこまれてからのような気がする。(中略)私は、当分、福音の説法者として生きつつ、私の頭の中で、新しい文明の原理を先取りしてゆかねばならないようである。

梅原は「この破綻をのがれる明瞭な理論的解決をもち合わせていない」ことに歯噛みしながらも、せめて自分だけは現代文明の「根本否定」をなしとげ、著作や講演、そして近年の「授業」を通じて一挙にではなく少しづつ世界を変えようとしているのだと思う。

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2008.07.01

矮猫亭・2002年10~12月

古い日記の再掲載、なんと三連発です。今回は2002年10~12月。この頃はあいかわらず緩めの詩モード、俳句モードが濃厚です。

この頃に始めた朝のウォーキングは今も続いています。いまにして思うと、この朝のウォーキングが週末のランニングのきっかけでした。毎朝、歩いているうちに歩くのが楽しくなって、毎週末、八国山を歩くようになり、その後、ふと走ってみたくなって、だんだん距離も伸びていったのです。


お月見しましたか? 2002/10/02

小望月レンズのほこり払う吾子

先月20日の金曜日のことです。いつもより少し早めに家に帰るとお月見のお供えが飾ってありました。給食に月見団子が出たと聞いて慌てて用意したのだそうな。息子も天体望遠鏡をベランダに用意して私の帰りを今か今かと待っていた様子。こうこうと輝く月にしばし時を忘れました。

で、さぁ、飯だ、酒だとリビングに戻ったらテレビの天気予報が言うのです。明日は仲秋の満月――。あらら、一日、早かった。でも、翌日の夜は生憎の曇り空。ツレアイの勘違いのお陰で却って良夜を楽しむことができました。


幼児虐待 2002/10/11

我が家からそう遠くない所で子供が虐待死する事件がありました。レクイエムをと思ったのですが悲しすぎて詩になりません。それでも読んでくれる方がいらっしゃれば少しは供養になるでしょうか。

   坂道

子供が死んだ
たったの四歳だった
母さんの恋人に殺されたのだ
(食事は二日に一度
(うどんを茶碗に半分くらい)

それは公園に向かう坂の途中
まだ新しいアパートでのこと
日曜日には
息を切らせて登って行く自転車が
何台も何台も見えた
独りぼっち閉じ込められた部屋
窓ガラスに顔を押しつけて
いつまでも見ていた
赤い自転車
いつまでも
怒鳴られても
殴られても

(わずか一年足らずで
(体重は半分を割った
(命の失われた
(その瞬間は
(だれにも見せなかった
(母さんにも
(見せなかった)


朝の散歩 2002/10/17

先週から朝の散歩をすることにしました。通勤の途中、乗換駅から一駅。15分ほど歩きます。やっぱり朝は清々しくてよいですね。思いがけないところに青果市場があったり安くてうまそうな中華料理屋を見つけたりいろいろと発見もありますしね。その分、仕事時間が減りますが頭と気分がスッキリして能率が上がるから15分くらいは取り返せちゃうんじゃないかって思っているのですが。はてさてどうなるやら。


柿の木のある庭 2002/10/30

主なき隣家に熟す柿たわわ

隣の家のおばあちゃん。もう90歳なのにとてもお元気でお互い庭仕事が好きなものだからよくフェンス越しに話をしました。でも一人暮らしは何かと心配とグループホームに入居されました。時々、帰ってくるって聞いているので早く、早く、と思うのです。でないと柿が熟してみんな落ちちゃう。みんなカラスに食われちゃう。

闘病(?)記 2002/11/08

なんということでしょう。今週は3日も休んでしまいました。それも病欠ですよ。病欠。病気でこんなに休んだ記憶はちょっとないですね。それも高熱で寝こんだとか、痛くて動けないとかそういうのではないんですよねぇ。ただただ寒気がして、だるくて、そして頻尿。どうやら腎盂炎らしいのです。もう4日も抗菌剤をのんでるのですがまだダメ。背筋がゾクゾクゾクゾク。

あんまり病気したことないせいかちょっと体調崩すと弱気になっちゃう。しっかりしなくちゃねぇ。さぁ月曜までに治すぞー。


え? 前立腺? 2002/11/09

今日、医者に行って来たのですが腎盂とか膀胱とかじゃなくて前立腺炎なんだそうです。この休みの間に治すぞーなんて思っていましたが完治には2~3週間はかかるそうです。まいったなぁ、長期戦かよー。


収穫 2002/11/13

うちには小学五年生の息子がいます。昨日は学校からお米を持って帰ってきました。スーパーで買うような白い米ではなく籾米です。稲作の体験学習で収穫した米。それを脱穀するのが宿題なのだそうです。フィルムの空きケースに入れて割り箸の先で突く。ひとしきり突いたら新聞紙に広げる。やさしく籾殻を吹くと、いよいよ玄米の登場です。白くない米に息子は驚き訝っていましたが私には黄水晶の原石のように見えました。大きなバケツをぶら下げた「行ってきます」から種蒔き、雑草取り、水やり、稲刈り。手間と時間を積み重ねた326粒の結晶。息子の心の中にも何かが結晶していると思います。いつか自分だけの色に輝き出す原石が。


菊花を飾って 2002/11/18

先日、隣のおばあちゃんの家から菊の切花を一抱え頂きました。といってもホームから一時帰宅なさった訳ではなく留守宅の様子を見にきた娘さんが庭の花を切って届けてくれたのでした。おばあちゃんの様子をお聞きすると変わらず元気にお過ごしとか。なにしろじっとしていられなくて職員の方々のお手伝いに精を出してるそうです。ちょっと安心。でも早く会いたいなぁ。

色も形もとりどりの菊を白い花瓶に投げ入れました。素朴な感じが目に愛らしく、香りもとても爽やかです。


おかえり、自転車 2002/11/22

日曜日のことです。義父母に誘われて六義園へ行くことになり慌てて出掛ける準備をしていました。そこに警察から電話がかかってきたのです。息子から受話器を受け取ると自転車が見つかったとのこと。ずっと駐輪場に置きっぱなしだったので不審に思った管理人が通報してくれたとか。

六義園からは早めに帰り(紅葉がきれいでした。(でも今度の週末はもっと見頃かも)バスで交番に向かいました。簡単な手続きを済ませて久し振りに愛車と対面した時にはあたりはもうすっかり真っ暗。お巡りさんにお礼を言って、さぁ、出発。はじめは寒風に凍えそうでしたがペダルをこぐごとに暖かく家に着く頃には、もう汗びっしょりでした。ビールがうまかったですよ。

錆だらけの愛車と親切なお巡りさんに乾杯!


今年もあと32.5日! 2002/11/29

いよいよ今年も後32.5日となりました。悔いを残さないようラストスパートをかけないといけませんね。でも、この1年を振返ってみるゆとりも大切にしたいと思います。通り過ぎてゆく日々、年月を通り過ぎるにまかせず、深く味わい直す。それは今年の上に来年を積み重ねてゆくためのレッスンでもあるはず。というわけで来月は今年のあれこれを振返ってみようと思います。

幼子の額のあざや冬ざるる

とはいえ思い出したくないこともありますね。今年は幼児虐待事件が多かった。この秋には私の自宅近くでも小さな子供が飢えて衰弱して死にました。来年は決して繰返したくないことです。


まずは句帖を開いてみましょう 2002/12/05

今年は実に俳句の年でした。以前から興味はあったのですが実作することは殆どありませんでした。今年は歳時記も購入し句作も19句に及びました。(まだ増えるかな?)音数律、季語、無駄を許さない簡潔さ。俳句の魅力が判りかけてきた気がしているのです。

   矮猫亭句帖2002

恋猫聞く不惑が二人向き合いて
花びらに降り籠められし心地して
春空の高みに機影の微かなる
おぼろ月本音を言わぬ人と居り
五月闇我れ凡なるを思い知る
梅雨憂し俺ならできると言い聞かせ
お風呂場に黴の香ほのか我家なり
蝉時雨我も歌わん歓喜の歌
涼風や鼻歌漏れる野天風呂
夕立のしずく残らず葉に抱き
何もせぬまま日暮れて虫時雨
ビルの間を野分忙しく過ぎにけり
夜仕事の妻の背丸く影落し
小望月レンズのほこり払う吾子
主なき隣家に熟す柿たわわ
木枯らしや岐路に立てるを告ぐ便り
落葉焚き偏屈ひとり手を炙り
流感の息子の耳朶の産毛かな
幼子の額のあざや冬ざるる

ちょっとだけ自慢を。下から三つ目の「落葉焚き」は俳句三昧の4級句会で4点を頂き高得点者一覧に俳号「矮猫」を載せて頂きました。


詩は勝率5割かな 2002/12/05

「現代詩手帖」に毎月新作を投稿すること。それが年頭に立てた目標でしたが実際に投稿できたのは6作品でした。勝率5割じゃペナントには手が届きませんね。

先ずは「冬のシュプレヒコールに」を再掲します。これは2、3年前から創作ノートの片隅で棚晒しになっていたものです。何はともあれ完成できて、あぁ、すっきりした。

   冬のシュプレヒコールに

その言葉は
誰に届くのだろうか
「しろ」とか
「やめろ」とか
命令形で発せられる言葉
そして隊列は
どこに行き着くのか

冬枯れのけやき並木
梢の向こうに木星が冴える
その静まりを越えて
僕には帰る場所がある
コートのポケットの中で
握りつぶす沈黙

そしていつものように
女の白い耳許に
ささやかな
シュプレヒコールを捧げるのだ


取引き 2002/12/05

今年2作目の投稿作品はやや長めの散文詩でした。「取引き」――これも完成まで時間のかかった作品で原形を遡れば6~7年前になります。ちょうど家を建て始めた頃です。長い間勤めた部署から全く違う部署に異動となりちょっと精神的に不安定になっていました。そのせいか時に飲酒の度を越すこともありました。婚約記念の時計をなくしたのもある飲み会で正体を失いかけた時のこと。いまにして思うと随分と情けない話ですがそれが後に詩のネタになるんだから判らないもんですねぇ。

   取引き

婚約記念に貰った腕時計をどこかに失くしてしまった。大むくれの妻に言わせると、神さまか誰かの啓示なんだそうだ。――結婚なんかなかったことにしなさい。返す言葉に窮していると建築業者から電話だ。もっともらしく眉をひそめて現場に出かけた。

その赤いハンドバッグは湿った盛土の上に置かれていた。ビニールにくるんで埋めてあったというが、それにしても色が鮮か過ぎる。――お心当たりはございませんか。施主様にも事情が判らないとなると、届けやらなにやら、ちょっと面倒なことになるかも知れません。さびた口金をそっと開くと、折り目正しくたたまれた離婚届があった。女の白い手が目に浮かぶ。苦い想いを葬る慎重な手つき。どこか見知らぬ街で、見知らぬ女の想いが、息を吹き返すような気がした。――取り壊した借家の住人が捨てたんでしょうね。管理を頼んでた不動産屋にあたってみて下さい。

帰り途、ディスカウント店で時計を買い電車に乗った。座席にからだを預けると、また女の白い手だ。向かいの席で文庫の頁をめくる指が、離婚届の女と似ている。妙に長い指。目が離せられない。白い手がしだいに静かに光り始める。その周りはむしろほの暗く、次々と闇が吸い寄せられる。中でもひときわ濃い暗みに女の長い指が沈んでゆく。少しずつ。喫水線が手首の骨の突起を洗うと、白い皮膚がくすぐったそうに粒立ち、今度はそっと指を引き上げ始める。幾度かのまばたき。ふいに赤いマニュキュア。その先には、なくした時計が、だらしなくぶらさがっていた。文字盤を滑る秒針に安心した僕は胸ポケットから一枚の紙を取り出す。離婚届。その文字に女も安堵したようだ。差し出すと時計をよこしてきた。取引きを終えると僕らはそれぞれ時計と離婚届とを闇に滑り込ませた。微かな落下音を聞きながら僕らは小さく会釈を交した。

湿りを帯びた闇が何くわぬ顔で散り拡がってゆく。その一片が買ったばかりの時計の文字盤に落ちて、黒い針は三本ともありかが判らなくなった。


やがて角の生える日 2002/12/05

3作目は息子から聞いた話をヒントに書いたものです。「オニちゅう」のモデルとなった先生はその後、他校に転勤されました。すぐ怒る、と文句ばかり言っていた息子ですが別れの日にわらばん紙に書いてもらったサインをいまでも大事そうに机に飾っています。

   やがて角の生える日

たけちゃんはくやしかったのだ
ちょーかっちょいい消しゴムを
むりやり下手くそな字でよごされて
ごしごしこすってみても
マジックだから消えねぇよ

絶対になくしっこない
消しゴムだったのに
もしも、もしも失くしても
くそーっなんて言わないで
静かになみだをかみしめられたのに

オニちゅうとあだ名された
先生の文字で
たけちゃんの名まえが
にじみ
かすむ
校庭に降る雨は
先生の大好きな
アジサイやアサガオを育むのに

やっと涙のおさまったたけちゃんに
小さな角が芽を出す
三十六本目の角は
ひときわ鋭く冷たかった


あいさつ 2002/12/06

今年4作目となった「あいさつ」は創作過程で幾度かここに顔を出しました。ですから、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが最初は語り手が女性だったのです。それも高校生くらいの若い女性が想定されてました。その頃は切なげな恋歌になるはずだったのですができあがりは、随分、違うものになってしまいました。

   あいさつ

走ってないと追いつかれるぜ
フレッドがよくそう言ってたっけ
でも、いつまでも走ってるわけには
いかないだろう
いつまでも
おんなじところを

立ち止まる
振り返る
こっちに来るのは誰だ
身構える
耳を澄ます
明かりなんかなくても
じきに目が慣れるさ

突然遠くで花火が鳴る
苦しそうに光って消える
痩せた肩の向こうで
小さく
微かに

さぁ追いついたぜ、フレッド
どんな挨拶をしようか


たいまつ 2002/12/09

今年5作目の作品です。ここでは血が書きたかった(のだと思います)。絆としての血、呪縛としての血。血を超えてゆく子供たち。それでも繋がれている子供たち。その悲しみと恍惚とを共有する親たち。

しかしタイトルがひどいなぁ。これじゃぁだいなしだ(苦)。そこで改題することにしました。

   あかあかと(旧題:たいまつ)

朝のテレビが叫んだのです
あなたのラッキーカラーは赤って
だから今日はことさらに
血と肉とを
意識していようと思います
皮膚や毛や粘膜に覆われた
日の光の届かない場所で
とろりと赤く流れるもの
ぷるると赤く蠢くもの

   どんな臓器にも
   母の小さな刻印が感じられます

乾いたカサブタ
掻いたらだめって言われても
とめられない指の動き
の中にも赤く筋繊維が
伸びたり縮んだり
無口な骨にしがみついて
あかあかと痙攣
かがやくいたみ
ふるえ

   子供たちの時間は低く飛ぶから
   どんなしるべも役に立ちません

声と表情とに隠された蠕動、腫脹、排卵、痙縮、細動、敗血、滲潤、律動、発熱、硬直。いつも赤く動いています。細胞膜に閉じ囲められた炎の色です。

   立ち止まるとタンポポ
   あしもとに
   もう花も種子も尽きて
   手持ちぶさた気に揺れている

ふいにつむじから
血と肉とが
溢れ出す

あかあかと


風の砂丘 2002/12/10

今年最後の作品となりました。(今月もう一作書けないとも限りませんが)長編詩として書き始めたのですが一向に前に進められなくなって考え直した結果のソネット風です。そのせいか、改めて読みなおしてみてもなにかの序曲のような雰囲気を感じます。

   風の砂丘

もしも私に愛が
許されるなら
それは五月

古い手紙から
解き放たれた風が
子供たちを勇敢にする

坂道を駆け登り
海と出会う
春と夏との隙間に
太陽が溶け落ちる

旅立ちの準備は
終わっただろうか
もうすぐ雨がやってくる
砂浜のむこうに揺れる麦藁帽子


映画。今年は何本、見ましたか? 2002/12/14

本当は大好きなんですよ、映画。でも、なかなか見る時間が取れません。今年、劇場で見た映画は「Monsters Inc.」だけ。ビデオやテレビで見たものを加えてもせいぜい10~15本というところでしょうか。そんな中からトップ3をあげてみますと

1位 スペーストラベラーズ(2000/日)
2位 Monsters Inc.(200x/米)
3位 Chocolat(2000/米)
3位 A.I.(2001/米)

といったところでしょうか。

「スペトラ」はとにかく楽しくて笑えてでも最後はお約束。悲しく、苦く。でも、やっぱり――。で、深津絵里が光ってました。「Monsters Inc.」は泣いた。泣いた。もう恥ずかしいくらい泣いた。実は単純な泣ける映画が好き。自分でも意外なことに。「Chocolat」も「A.I.」も良い映画でした。優劣つけがたく同率3位。

来年はもっと見たいなぁ。


ちょっと貧しすぎな読書生活 2002/12/16

映画の次は本のトップ3です。

1位 長谷川龍生詩集.現代詩文庫.思潮社.1969
(以下、該当なし)

実は今年は余り本を読んでいないのです(「現代詩手帖」は一所懸命読んでいましたが)。これは、と思うような本と出会えなかったのはやはり母数が少なすぎたせいでしょうか。

で、長谷川龍生ですが今まで殆ど読んだことがなかったんですが「現代詩手帖」の特集で興味を持ちました。読んでみると実に良い。もっと早く読んでおけばよかった。


鴉啼く 2002/12/20

雪しまく挑むが如く鴉啼く

年内にもう1句くらい詠めないかなと思っていたら東京には珍しい大雪が降ってくれたおかげで滑り込みセーフ。

「雪しまく」は風吹きすさぶ中に雪が降る様子を表す季語です。裸木に1羽。ふてぶてしい面持ちで耐えている黒い鳥。孤高――やっぱり群れてちゃ美しくないのでしょうか。

声音を意識して「く」を重ねてみましたが、くどかったかなぁ。

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2008.06.30

矮猫亭・2002年7~9月

引続き古い日記の再掲載。今回は2002年7~9月。依然として詩モードは衰えていませんが、かなり気分が俳句に傾いています。近頃のボクもそんな感じです。もっとも俳句から現代詩へとなんとか気分を切り替えようとしているところですが……。

ところで宇宙飛行士の星出さんはついに念願をかなえ、スペースシャトルで雄飛を果たしましたね。宇宙飛行士から数学教師へと大きく夢を転換した息子ですが、今でも彼の机の上には、日本科学未来館での講演会で頂いた星出さんのサインが飾ってあります。


五月闇 2002/07/02

五月闇我れ凡なるを思い知る

五月闇。旧暦5月は梅雨の最中。どんよりとした雲が月も星も隠す夜。ふと、自分の余りにも平凡なることに気づきました。いや、前々から気づいてはいたのです。多分。ただ、なかなか認めることができなかったのですよ。きっと。だって、やっぱり自尊心ってあるじゃないですか。それが自分の支えになってるとこが、やっぱり、あるじゃないですか。でも、もう認めちゃえって、平凡でいいじゃんって。人より優れていると思い込んでないと堪えられないなんて、それこそ弱さだなって。

でも、じゃぁ、自分の自分であることを支えるのは何?やっぱりそう思ってしまう。そして暗闇に立ち尽くす。スケートボードの板の上。

全然、不惑じゃぁないんですって、四十歳って言ったって。僕は。


梅雨憂し 2002/07/02

梅雨憂し俺ならできると言い聞かせ

最近、ちょっとオーバーロード気味で自信がないのです。しかも未経験領域で2つもプロジェクトを抱えちまった。でもねぇ、投げ出せないのですよ。家族のため、自分のため。目を閉じて自分を励ましながら通勤列車に揺られる毎日です。


黴 2002/07/03

お風呂場に黴の香ほのか我家なり

その家、その家の匂いって、あるじゃないですか。あれって何なんでしょう。出張から帰ってきたときとか、自分の家の匂いにホッとする。あぁ、やっぱりウチが一番。結構、カビなんかもかんけいあるんじゃないかなぁ。そう思うのです。それぞれの酒蔵に住み着いている酵母やコウジカビの違いが、酒の味に違いをもたらす。そんな話を聞いたこともあります。いまどきの近代的な酒造工場では、そんなこともないのでしょうけどね。


今月のご報告 2002/07/08

毎月のご報告がまだだったですね。5月に投稿したのはこんな詩です。

  たいまつ

朝のテレビが叫んだのです
あなたのラッキーカラーは赤って
だから今日はことさらに
血と肉とを
意識していようと思います
皮膚や毛や粘膜に覆われた
日の光の届かない場所で
とろりと赤く流れるもの
ぷるると赤く蠢くもの

   どんな臓器にも
   母の小さな刻印が感じられます

乾いたカサブタ
掻いたらだめって言われても
とめられない指の動き
の中にも赤く筋繊維が
伸びたり縮んだり
無口な骨にしがみついて
あかあかと痙攣
かがやくいたみ
ふるえ

   子供たちの時間は低く飛ぶから
   どんなしるべも役に立ちません

声と表情とに隠された蠕動、腫脹、排卵、痙
 縮、細動、敗血、滲潤、律動、発熱、硬直。
 いつも赤く動いています。細胞膜に閉じ囲
 められた炎の色です。

   立ち止まるとタンポポ
   あしもとに
   もう花も種子も尽きて
   手持ちぶさた気に揺れている

ふいにつむじから
血と肉とが
溢れ出す

あかあかと


先月(だったかな?)から選者が変わったのですが相変わらず佳作にもひっかかってません。う~む。


がんばれ! 星出宇宙飛行士 2002/07/15

久しぶりに日本科学未来館に行ってきました。息子(小五)が団員になっている宇宙少年団主催の星出彰彦 宇宙飛行士講演会に参加してきたのです。

星出さんは2006年完成予定の国際宇宙ステーションの乗組員です。5~6年後の搭乗に向けて日々訓練に励んでいらっしゃいます。講演では、その内容を判りやすく紹介してくれました。毎日、大変だけど、夢があるから頑張っていけるよ――。夢を持ち、その実現に向けて努力することの楽しさ、大切さを子供たちに、いやいや、大人たちにも教えてくれたのでした。難問あり珍問ありの子供たちの質問の1つ1つに気さくに、丁寧に、楽しそうに答えてゆく様子が印象的でした。


台風一句 2002/07/18

ビルの間を野分忙しく過ぎにけり

台風一過ならぬ台風一句です。が、「野分」は本当は秋の季語なんですよねぇ。


それが楽しみで、ついつい 2002/07/22

今日はすっかり筋肉痛です。足、腰、背中が張ってます。昨日の日曜は芝刈りと雑草むしりで一日中しゃがんでいたからです。

一気にやる必要ないのに、と思っても刈りたての芝生を眺めながら冷えたビールをクーッてのが楽しみでついつい頑張ってしまいました。

今日は、そのツケが回ってきてます。せめて明日には払いきれていると良いのですが。


鬼怒川も暑かった 2002/08/06

蝉時雨我も歌わん歓喜の歌
涼風や鼻歌漏れる野天風呂

先週木曜日から鬼怒川へ家族旅行に出かけました。昼間は、炎暑にもマケズ、豪雨にもマケズ東武ワールドスクェアーに日光江戸村と精力的に遊び夜は、もちろん、温泉⇒ビール⇒また温泉。珍しく家族カラオケも楽しみました。で、朝も、やっぱり、温泉。ひと風呂浴びての朝ごはんは食が進みます。

やっぱり家族で過ごす時間はほんと、楽しいですねぇ。あ~あ、もっと夏休みが長かったらなぁ。


かたぐるま 2002/08/08

私の勤めているオフィスはマンション街の一角に場違いにそびえたビルにある。遅くまで働いて会社を出ると早く帰れたお父さんが子供を連れて歩いていたりする。昨夜は3歳位の男の子を肩車した若い父親とすれちがった。後から思うと子供を肩に載せられるのはほんの短い間。あの感触を思い出す。あの幸せをもっと大切にしたかったと思う。

子供はどんどん成長し変わる。その時その時の子供と過ごすことをもっともっと楽しんでゆきたいです。

夏休み。もっともっと。


読書録「長谷川龍生詩集」 2002/08/11

ここのところ本の紹介をしていませんでした。実はあんまり読んでいないのです。ちゃんと読んでるのは「現代詩手帖」くらいかな。その「現代詩手帖」の7月号に「長谷川龍生の現在」という特集がありました。今年13年ぶりに詩集「立眠」を発表した彼は「荒地」と並んで戦後詩をリードした左翼系詩誌「列島」の中心人物でした。

で、ふと考えてみると「荒地」派の詩人はそれなりに読んできたけど「列島」は黒田喜夫くらいしか読んでない。そこで久しぶりに現代詩文庫に手を伸ばしました。

参りましたね。特に処女詩集「パウロウの鶴」の「逃げる真実」や詩集「虎」の「恐山」、「二つの抜け穴」未刊の「囮り鳩」なんかも良いです。リフレインの使い方の上手さ。ドラマチックな展開。ぽっかりと口をあけた落とし穴のような日常に潜む陰謀、狂気、不条理。

俄然、「立眠」も読んでみたくなりました。
おすすめ度は★★★★☆です!


今月のご報告 2002/08/11

「現代詩手帖」への投稿作品。6月はこんな詩を書きました。

  風の砂丘

もしも私に愛が
許されるなら
それは五月

古い手紙から
解き放たれた風が
子供たちを勇敢にする

坂道を駆け登り
海と出会う
春と夏との隙間に
太陽が溶け落ちる

旅立ちの準備は
終わっただろうか
もうすぐ雨がやってくる
砂浜のむこうに揺れる麦藁帽子


で、今月も紙面を飾るには至らんかったです。まだまだ頑張りますよー。


夏休みの想い出 2002/08/21

とうとう夏休みが終ってしまいました。10日の土曜日から数えて6連休とそこそこの長さではあったのですがやっぱり終ってしまうと、あっという間です。

この6日間の主な出来事、想い出を数えてみます。

■ 10日(土)メモリを192MBに増設

ずっと買ったときの64MBのままできたのですがさすがに我慢しきれなくなり増設に踏み切りました。それにしてもメモリは安くなりましたねぇ。

■ 11日(日)久しぶりに工事の音を聞く

わが家は旭化成のへーベルハウスなのですが1ヶ月ほど前に築5年点検がありました。基礎の補強とトイレ扉の修繕を行うことになり夏休み早々、自宅で工事の音を聞くハメに。

■ 12日(月)日本科学未来館「火星への旅」展を見る

元宇宙飛行士の毛利衛館長と漫画家の松本零士との共同企画による特別展です。この日は偶然、松本零士と星出彰彦宇宙飛行士との対談も行われており、興味深い話が聞けました。息子もパンフにサインをしてもらって大満足。

■ 13日(火)ネイチャーゲームを初体験

日本ネイチャーゲーム協会主催の所沢自然学校に参加。食物連鎖を疑似体験する「キツネ、ウサギ、葉っぱ」と観察力トレーニングの「カモフラージュ」を体験しました。まったく初めての経験だったのですが面白かったなぁ。息子も是非また参加したいと喜んでました。

■ 13日(火)映画「銀河鉄道999」を見る

レンタルビデオを借りてきて23年ぶりに見ました。先日の「火星への旅」展には松本零士のコーナーもあってヤマト、ハーロック、等々の作品が展示されていました。中でも特に息子が興味を惹かれたのが「銀河鉄道999」。奇しくも私が高校生の夏に見た作品でした。23年後に再び、今度は家族で見る。何とも感慨深かったです。

■ 14日(水)これもビデオで映画「A.I.」を見る

「銀河鉄道999」の鉄郎は反機械化主義。「A.I.」のDavidは機械そのもの。でも「希望」という同じメッセージが聞こえた気がします。

■ 15日(木)映画「スペーストラベラーズ」「ペイ・フォワード」を見る

「銀河鉄道999」と「A.I.」を返却がてら「銀河鉄道999」の続編を借りに行ったのですが貸し出し中だったため、この2本を借りてきました。「スペトラ」も「ペイ・フォワード」もやっぱり「希望」でした。

■ 15日(木)自転車盗まれる

実はレンタル屋には自転車で行ったのですがビデオを抱えて店の駐輪場に戻ったら消えてしまってました。こんなボロだれも盗みはしないだろと油断していた罰ですね。しかたなく炎天下をトボトボと歩いて帰りました。息子の自転車は無事だったので先に帰りなと言ったのですがいいよいいよって、家まで付き合ってくれました。男らしいと言うか、頼もしくなったもんだ。私は車を運転しないのでちょっと非常識なほど自転車を酷使してきました。通算すると荷重も距離もハンパじゃないと思います。10年以上も無理に耐えてくれた自転車なので諦めずに盗難届を出しました。映画だけじゃない。盗難届のテーマも「希望」なのでした。


夕立しずく 2002/08/21

夕立のしずく残さず葉に抱き

雨上がりの夕方、雨戸を閉めようと窓辺に立つと庭のチャボヒバに雨のしずくがびっしりとついていました。薄赤い日を浴びてキラキラと光る様のきれいなこと。ただ、それだけのことなのですが生きていることの歓びを感じさせられました。ちょっと大袈裟かな?でも一日中、家で書類の整理をしていたせいかせいせいと気の晴れる、心の解放される感じがしたのです。


かまきり 2002/09/05

またちょっとご無沙汰してしまいました。その間に8月は終わってしまって残暑厳しい中にも少しづつ秋の気配が感じられます。

今夜は会社帰りの駅のホームでカマキリを見つけました。家の最寄の所沢ならいざ知らず池袋駅ですよ。イケブクロ。雑踏に潰されることもなく15センチくらいにまで育ったカマキリ。

蟷螂の祷れるを見て父になる 有馬朗人

カマキリが鎌を持ち上げた姿まで祷る姿に見えるなんて余程、心配だったんでしょうねぇ。お父ちゃんですねぇ。父カマキリは母カマキリに食われてお腹の中の卵の栄養になる。そんなことも思い出させる一句です。


キルト・フェスティバル 2002/09/08

ハーツ・アンド・ハンズというキルト学校主催のキルト・フェスティバルに行ってきました。実はツレアイがこの学校に3年ほど通っており今年初めて作品を応募したところブロンズ賞を頂いてしまったのです。諸先輩、同輩の労作、傑作、秀作と並べられても決して見劣りしない独自性が感じられた――かな?ちょっと欲目も入っているかもしれませんが。

キルト・フェスティバルは明後日10日まで渋谷東急本店7階でやってます。19世紀の作品を中心としたアンティークも多数展示されていて、なかなかの見モノですよ。


丸い背中 2002/09/19

夜仕事の妻の背丸く影落し

急に秋らしくなってしまってちょっと心細いくらいですね。日もすっかり短くなって家事も大変そう。つれあいも昼のうちに終えられなかったことを遅くまで頑張っていたりします。その背中が妙に丸く見えてやっぱり歳とったなぁと思いました。もちろんお互い様だけど、ちょっと寂しい。寂しいけど却って愛しくもあって夫婦ってなかなか奥が深いですねぇ。


タマゴ、発見! 2002/09/22

庭の掃除をしていたらこんなものを見つけてしまいました。誰のタマゴなんでしょうねぇ。やっぱり鳥かしら。一体、誰がどっから持ってきちゃったのかなぁ。で、やっぱり、食べちゃったんでしょうねぇ。


金木犀の香りに 2002/09/29

今日は思いがけずいい天気になりましたね。天気予報がハズレるのは困るけどこういうハズレはプレゼントみたいなものかな。明るい空を見ているといても立ってもいられなくて家族揃って自転車に乗って航空公園に行きました。広い公園のあちらこちらに金木犀の良い香り。もう、すっかり、秋なんですねぇ。

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2008.06.27

矮猫亭・2002年4~6月

古い日記の再掲載。今回は2002年4~6月。仕事モードと入れ替わるように家族と過ごす日常生活の記述が増えてきている。ティーンエイジを目前に控えた息子と一緒に遊ぶ最後のチャンスといった気持ちがあったようだ。詩作のほうも徐々に調子が乗ってきている様子。まだ40歳になったばかりの比較的充実した日々が思い出される。


ROBODEX2002 2002/04/02

日曜日のことです。久し振りに横浜に行きました。もっともROBODEXを見るのが目的だったので大好きな街歩きも今回はおあずけでした。ROBODEXはパーソナル・ロボットの総合展示会。今回が二回目で、二年前の初開催の時にはソニーの小型ロボットの集団がパラパラを踊り世間の注目を集めたそうです。覚えてますか? この間にロボットはますます進化し、ますます身近に人々の関心もますます高まってきたのだそうです。ROBODEXも大盛況で、30分も行列しちゃいました。入場してからも、人気ブースのデモはかなり前からならんでいないと、近付けないくらい。

本田ASIMOやソニーAIBOといった有名ロボはもちろん商品化されたものなら、ロボット玩具に警備ロボ癒しロボやロボット研究用なんてのもありました。実験機となると、町の発明家の手造りブリキロボから大学や研究所の本格ロボ、国家プロジェクトの最先端ロボまでと、更に幅広のバラエティです。

数々のロボットたちと、ロボットに情熱を注ぐ人々。私は、もうすぐかもしれないと、思わされました。息子が大人になる頃には、ロボットと一緒に働くのが当たり前のことになるかもしれないと。20年前には未だ特別な存在だったパソコンが今では、すっかり、ありふれた存在になったように。15年後の私は、、肩叩きの不安に怯えながらロボット操作の教習所に通っているかも知れませんね。昔は、体力とパソコンでやってこれたのになんて、情けなくグチをこぼしたりして。


ご報告 2002/04/06

  やがて角の生える日

たけちゃんはくやしかったのだ
ちょーかっちょいい消しゴムを
むりやり下手くそな字でよごされて
ごしごしこすってみても
マジックだから消えねぇよ

絶対になくしっこない
消しゴムだったのに
もしも、もしも失くしても
くそーっなんて言わないで
静かになみだをかみしめられたのに

オニちゅうとあだ名された
先生の文字で
たけちゃんの名まえが
にじみ
かすむ
校庭に降る雨は
先生の大好きな
アジサイやアサガオを育むのに

やっと涙のおさまったたけちゃんに
小さな角が芽を出す
三十六本目の角は
ひときわ鋭く冷たかった


2月に「現代詩手帖」に投稿した詩です。応募総数588篇。入選9篇、選外佳作10篇。今月も選者のお目がねにはかないませんでした。


ロボット経済学 2002/04/09

ロボットが働く。そんなことは誰でも考える。私でさえ考える。ロボットが働けば労働の供給が増える。私の仕事もロボットに奪われるかもしれない。こんなことを考える人も少なくない。妻も考えた。SF小説にもありそうだ。さらにロボットが消費すると考える人もいる。燃料を使うとか、強化プラスチックが云々モーターがどうこう、マザーボードが......、とかいう話ではない。ロボットが知性を持つようになれば、人間のように欲しいものを買うようになるというのだ。驚いた。が、消費が増えれば労働需要も増えるというもの。私もクビがつながるかもしれない。いまからロボットに気に入られる方法を考えておこう。

福田次郎.ロボットとエージェントによる新たな経済市場の創造.MRI TODAY.2002.3.28


今年も来てくれましたよ 2002/04/16

日曜日、狭山の稲荷山公園に行ってきました。私の住む所沢からは西武池袋線で15分程度。芝生が広々としていて、キャッチボールにもピクニックにも、ウォーキングにも、もってこいです。満開の八重桜の下にシートを広げ、お茶とおにぎりの昼食を取っていたら、頭上を横切る黒い小さな影。珍しく持ってきていたビノキュラを覗いてみると......なんとツバメではないですか! もう来てたんですネ。みずくさい。ひとこと行ってくれれば、いいのに。まぁ、言ってもらっても、何もお構いできないけどね。スズメ、カラス、ヤマバト、ヒヨドリ、シジュウカラにわかバードウォッチャーに分かるのは、これ位いのもの。でも双眼鏡で見る世界は、不思議なほどキラキラと輝いていて、とても平和そうに見えるのです。すぐ隣が、自衛隊の基地だなんて、嘘のよう。


のんきな庭びと 2002/04/28

ゴールデンウィークの1日目。いかがでしたか。私は殆ど庭で過ごしました。草取り、種まき、花ガラ摘み。晴空の下、緑と花に囲まれて、ゆっくりと過ごしました。ウグイスの鳴く声も聞こえてきたりして。なんだかホッとさせられました。


おにぎり、おにぎり 2002/04/29

ゴールデンウィークもあっという間に前半戦が終わってしまいました。この3日間、東京近郊はよく晴れた日が続いて、遊びがいがありましたね。一昨日は庭仕事に精を出しましたが、昨日は家族で銀座を歩きました。休日に行ったのは久しぶり。すっかりストリートパフォーマーが増えていて驚きました。この春から総合学習の時間に稲作の勉強することになった息子の参考にと「お米ギャラリー」というところに立ち寄りました。展示物はこじんまりとしたものですがPR用の小冊子やレシピカードがふんだんに用意されていました。米粉のクレープやお米のアイスクリームなんかも売ってましたが私はやっぱり、おにぎり。なかなか美味しかったですよ。京橋駅近くの警察博物館というところにも行ってみました。明治以来の貴重な史料が惜しげもなく並べてあって思いのほか見ごたえありでした。

で、今日は例によって航空公園。一日中お日様の下で過ごしました。いつもはコンビニで弁当買っていくのですが、今日は自分でおにぎりをつくってみました。握るたびに形も大きさも違っちゃうのですが、ま、外で食べれば何でも美味しい。ですよね!?


あ~あ、終っちゃった 2002/05/07

って、何がって、GWですよ。もちろん。

妙なもんで終わった途端に今日は大雨。「あ~あ気分」がマスマスつのります。朝だってきっちり5時半に目が醒めちゃうから不思議。時計が鳴るのは6時なのに。あ~あ。

ところでGW後半ですが、結局、前半と同様、近場で過ごしてしまいました。3日は立川の昭和記念公園、5日はいつもの航空公園。あとは庭仕事やら、買い物やら。どうってことのない4日間でしたが、でも、だからこそ、心底、くつろげたのだと思います。

だからこそ、GW明けは、あ~あだなぁ。


今月のご報告 2002/05/08

  あいさつ

走ってないと追いつかれるぜ
フレッドがよくそう言ってたっけ
でも、いつまでも走ってるわけには
いかないだろう
いつまでも
おんなじところを

立ち止まる
振り返る
こっちに来るのは誰だ
身構える
耳を澄ます
明かりなんかなくても
じきに目が慣れるさ

突然遠くで花火が鳴る
苦しそうに光って消える
痩せた肩の向こうで
小さく
微かに

さぁ追いついたぜ、フレッド
どんな挨拶をしようか


3月の投稿詩です。こうして読み返してみるとストーリーに寄り掛かり過ぎだな。そのストーリーも、現代詩手帖で取り上げられるには、余りに通俗的過ぎました。でも、よいのです。そういうのが書きたかったのだ