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2004.09.17

ふたたび現代詩手帖9月号から

『現代詩手帖』9月号,後半から印象に残った言葉をいくつか.

先ずは井川博年のエッセー「岩田宏の詩と言葉:詩が書けなくなったときに」から.

詩は社会と、そこに生きる人間を書かなければ駄目だ。

井川は高校時代に詩を書き始めたときからずっと岩田の熱烈なファンだったという.その岩田の詩から学んだのが,社会と人間を書かなければということ.私にとっても社会と個人との関係は常に意識させられる,通奏低音的なテーマであり,共感を覚える.

ところで冒頭に引用されている岩田の詩が素晴らしい.内容を簡単に紹介しておく.「おれ」には子どもの頃リイ君という(在日?)韓国人の友だちがいた.しかし,その友だちを裏切り,他の子ども達と一緒に「くさい くさい 朝鮮 くさい」とはやしたてたことがある.そのことを思いだすと「おれ」は……

おれは一皿五十円の夜中のギョウザ屋に駆けこんで
なるたけいっぱいニンニク詰めてもらって
たべちまうんだ
二皿でも三皿でも
二皿でも三皿でも!     (「住所とギョウザ」より)

これまで岩田の作品を意識して読んだことはないが少し誤解していたのかもしれない.

守中高明の連載詩「系族」から.

今朝あなたから届いた手紙は、ほんとうに大切な手紙、あなたが今
いる見知らぬ土地の、けれどなつかしいいつまでも鳴りやまぬ雪の
ざわめきを伝えてくれるほんとうに大切な手紙でした (「手紙」より)

まだ3回目ではあるが,この連載には毎回心を動かされる.どこを引用してもこの幻惑を伝えることはできないので,やむなく冒頭部分を引いたが,是非,全文を読まれることを薦めたい.

ジミー・サンティアゴ・バカの詩「サウス・ヴァレーの瞑想XVI」(訳:斉藤修三)から.(白人?)の役人から提示された父親の死亡証明書が気に入らない「おれ」は……

白を消して
「チカーノ」と書き入れた。死因の欄に書かれた「肉が喉
 につまる」という文字を消して、
こう書き直した
「白人になろうとしたため」

バカの作品を読んだのは初めてのこと.訳者である斉藤の紹介文「バリオの使者:ジミー・サンティアゴ・バカ、リーディング同行記」によると,バカは「民衆の声を代弁し,民衆に向かって語る」バリオ(スラム街)の詩人,転換期を迎えたチカーノ(メキシコ系アメリカ人)文学の代表的な詩人なのだそうだ.

いまアメリカ詩は二つの派に分裂してたがいに争っている。一つはアカデミックな知識人たちで主に趣味として詩を書く。もう一つはポエトリ・スラムの詩人たち。(「バリオの使者:ジミー・サンティアゴ・バカ、リーディング同行記」より)

バカは斉藤にこう語ったそうだ.お前はどっちに立つんだと問われているように感じられ緊張を覚える.だが……

「余が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」(「柴門ノ辞」)といったときの松尾芭蕉は文芸に携わる者の覚悟を表明するとともに、人間の本源を追求することには世間の実用に代えがたい深い意義があることも同時に表明したのだった。(中上哲夫「虹はなんのためにあるのか:この世界に自分の居場所がないと感じたときに」から.)

中上のエッセーを読むと,どちらに立ったとしても詩は即時的な解決には何の役にも立たない,と感じさせられる.どちらの側に立って詩を書くにしても,その無用さを生きる覚悟が必要なのだろう.無用の用を信じる覚悟が.

これまでのように詩を読み続け,書き続けるために,そのような覚悟,腹を括ることが今の自分には必要だと感じている.私が詩を覚悟するための処方箋はどこにあるのだろうか.

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