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2004.10.20

新たな生への扉――現代詩手帖から

『現代詩手帖』10月号を読み終えたところ.後半の105頁から,いつものように印象に残った言葉を書き抜く.

まずは伊藤比呂美の詩「私たちは、母に連れられて」から.

私たちは、母に連れられて
乗り物に乗りました
乗って降り、また乗りました
車に乗りバスに乗り
それから飛行機に乗りました
またバスに乗り電車に乗り車に乗りました
          (連載詩「河原ヲ語ル」より)

連載第1回にふさわしい203行におよぶ力作の冒頭部分.本当は全編を引用したいのだが,そういうわけにもいかない.この6行で代用する.主人公の「私」と「弟」は「母」につれられて異国をさまよう。そして放浪の果て、兄弟は母国語を奪われ異国語を押しつけられる…….伊藤の新作は随分久しぶりのように思われる.ほとばしる言葉の勢いに「堰を切った」という感じを持った.

続いては前半の特集「[第三期]の詩人」にも登場した「第三期」らしからぬ「第三期」の詩人,堀川正美の言葉.

かずしれない魂の実体およびその総体を感受性の対象とすることが詩人の責任だといわなければならぬ(出典未詳)

吉田文憲,野村喜和夫,守中高明,和合亮一の4氏による討論「歴史状況の中で――戦後詩再考」の中で守中が引用したものだ.今月号から「責任」という言葉を書き抜いたのは何度目であろうか.はすっぱな物言いだが詩の世界の「時代のキーワード」なのかもしれない.

ところで,この討論は早稲田現代詩研究会主催「第一回詩のシンポジウム・戦後詩再考」で行われたパネルディスカッションである.もう20年以上前のこと,早大で鈴木志郎康が特別講義をしたのを思い出す.当時,浪人生だった私は友人に誘われてこっそり聞きに行ったものだ.

詩は不安定な状態から突然生まれるものであり、詩が生まれた結果、生まれる場となった人が詩人となるのではないだろうか。しかし、それは一瞬のことで、詩人はたちまち不安定な状態に放り戻される。つまり詩人ではなくなる。ふたたび詩の生まれる場となりたくて、さまよいはじめる。(「不安定をこそ――斎藤恵子『樹間』」より)

高橋睦郎の書評から.この感じは良く分かる.恐らく詩を書くものなら誰もがそう感じるのではないか.まして自分は,長らく,あてどなく,さまよう身である.いったい出口はどこに…….

詩にとって、詩でないものは全て体制である。(「詩書月評」より)

武田肇が連載している「月評」の見出し.威勢のよい言葉が並ぶところがこの著者らしさだが,それにしても今月はかなりキレている.暴走と言ってもよいかもしれない.あたかもラリーを見ているかのようなスリルだ.ラリーには派手なドリフトやジャンプ,ウォータースプラッシュといった見せ場がつきもの.たとえば次のような言葉はその見せ場にあたるだろう.

ぼくらを関らせてくれる詩とはその内容ではない。あなたが緻密に何かと(何でもいい)闘っている、その潔白で無意味で開放的な姿だ。(前掲)

最後にもう一つの月評,石田瑞穂の「詩誌月評」から.

記憶は苛む。しかし人は記憶の重みに耐え抜いた時、新たな生への扉を叩くこともできる。失われたものたちと共に。(「詩誌月評」より)

石田の文章はよく抑制が効き真摯な印象を与える.だから,このようなフレーズが素直に胸に響くのだろう.思えば今月号は特集を筆頭に全巻を挙げて現代詩の歴史を見つめなおしている印象を与える.それは歴史の,記憶の重みを引受け,新たな時代を切り拓こうとするものだろう.石田のこの言葉は,はからずも今月号の全体を総括するものとなった.

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