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2004.10.09

現代詩手帖から

『現代詩手帖』を読んでいる.10月号の特集は「[第三期]の詩人」.かつて吉本隆明は,1950年代にデビューした谷川俊太郎飯島耕一,大岡信,入沢康夫らを,「第一期」=昭和初期のモダニストたち,「第二期」=戦後の「荒地」や「列島」の詩人たち,に続く「第三期の詩人たち」と呼んだ.そこには否定的なニュアンスが込められていたそうだ.一方,当事者の一人である大岡は自分たちの世代の詩を「感受性の祝祭」と呼び吉本に対抗した.「第三期の詩人たち」は今日に至るまで活躍を続け,常に現代詩をリードしてきた.

さて,この特集記事から印象に残った言葉をいくつか書き抜いておこう.まずは城戸朱理・田野倉康一との対談での佐々木幹郎の発言.

一つの世代の動きを出発点のイメージだけでまとめてしまうと、そこに大きな誤差がある。どの時期にどの世代の動きと重層しているか、どういうかたちで繋がっているのかを見ないと戦後詩は俯瞰できないし、見取り図は立体化されない(「感受性の展開と持続――[感受性の世代]解説」より)

言われてみれば当たり前のことかもしれない.が,詩史に限らず,図式的な世代論を振り回したり,それで判ったような気になってしまうことは我々がしばしば陥りがちな落とし穴だと思う.

次は三浦雅士の「時の四重奏――谷川俊太郎、飯島耕一、大岡信、入沢康夫」から.

いま、蔽いがたい寂しさが忍び寄ってくるとすれば、詩人たちの誰も、時代に対しても世代に対しても、責任など感じていないことだろう。責任などという言葉がもはや存在しないのである。

う~む,手厳しい…….自戒を迫られる思いだ.

次の四元康祐の言葉にも身の引き締まるような感じを持った.

現実に立ち向かう詩人の厳しいモラルに気づかないなら、君は綺麗な言葉の蝶々を眺めているに過ぎない。それは束の間君を慰めてくれるだろうが、成長させることはないだろう。だが君が本当に詩を愛し、そこに己を託そうとするのなら、君は言葉を超えて、詩と現実との亀裂へ降りてゆかねばならない。(「「谷川俊太郎」という劇」より)

最後に最も印象深かった山本哲也の文章を書き抜いておく.

一九五〇年代の新人と二〇〇四年現在の新人との決定的な違い、それは……中略……生への「肯定性」が、詩の現在に見られない……中略……現代の若者は「あてどない夢の過剰」が現実への不適応をもたらすことを直感的に見抜いているのだ。だから、現代の青春には、「夢の過剰」それじたいがありえないものなのだ。(「紙の上の祝祭――「第三期」の詩人たちの変容」より)

私も中学生の息子を持つ身だが,息子を見ていると「自分もあんなに醒めてたっけ」と思うことがしばしばだ.その度に苛立ちを覚えるが,このように言われてみると,こちらこそ「あてどない夢の過剰」からか現実に適応し切れないでいるように思われてくる.やれやれだ.

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