« 今月も『現代詩手帖』を読んでいる | トップページ | やっと10人、とうとう10人 »

2004.11.16

現代詩手帖から

いつものように『現代詩手帖』からの抜書き。11月号の2つの特集から印象に残った言葉を引く。

まずは討議「性差を越えたゆらぎ――女性の詩、この10年」(新井豊美、吉田文憲、小池昌代)から、白石かずこ「カモン、ニコラ」を評した吉田の発言。

こころを届けたい他者がいるから言葉がよく伸びていく

詩を書くときに、個別具体的な誰かを思い浮かべながら書くのがよいのか、その逆なのか、といったことがしばしば議論の的となる。白石の場合は確かに吉田の言う通り「届けたい他者がいる」ことが美質に繋がっているように感じられる。だが、それが誰にでも有効な魔法の杖とは思われない。こうした議論は結局「詩の多様性」という概念に回収せざるを得ないのだろう。

次はクリハラ冉が「人間という名の喩(メタファ)――女性即人間である可能性について」で引用した長澤延子の言葉。

魂が破滅を選ぶなら、同時に肉体も破滅しなければならぬ。……略…… 魂の破滅を自らの破滅となすことによって、肉体は自身の誇りを保たねばならないのだ(「手記」より)

思いつめた表情、なにか悲痛なのっぴきならないものを感じさせる。長澤は1932年生まれ。敗戦直後の14歳のときから詩作を始め、その3年後には自ら命を絶ったそうだ。メールマガジン「C-Direct-2U」の2004/11/15号に紹介された「折鶴」も痛ましさを感じさせる作品だ。

女性詩の祖は与謝野晶子であり、そこから「実感軸」・「思想軸」・「暗喩軸」・「感情軸」の4つの方向に分かれて女性詩は展開していった、とするクリハラの立論はいささか図式的に過ぎるようにも感じられなくはないが女性詩にまつわる本質的な問題を提起しており興味深い。

以上は特集1「[女性詩]新地点」から。続いて特集2「平田俊子山崎るり子」からは中沢けいのエッセイ「しなのか しなんだ」から引く。

人は鼻歌を歌う時、ちょっとだけ詩人なのだ。人は口笛を吹く時、ほんの少し詩人になっている。

これだけを読むと、あたかも平田の詩が鼻歌扱い、口笛扱いされているように見えるが、もちろん、そうではない。

街の中にはそういう詩人になりかけた人の魂から零れ落ちた欠片があっちこっちにふらふら泳いでいる。それは詩なのかと聞かれれば、それを詩なんだと拾い集めて形にしてやることが詩人の仕事だろう。

平田の稀有な資質に対する最上級のオマージュと読んだ。最後に平田へのオマージュをもう1つ。

自分を巻添えにしてこそ諷刺には価値がある

横木徳久の「谷間世代へのオマージュ――平田俊子詩論」より。「谷間世代」とは団塊世代とオタク世代との狭間ということ。その世代に特有の心性が平田の美質を育んだ要因の一つだと横木は言う。そして平田の最大の美質は「自分を巻添えにしてこそ諷刺」にあると。

う~む、確かにギター侍・波多陽区もシメに「切腹」あってこそ……。

|

« 今月も『現代詩手帖』を読んでいる | トップページ | やっと10人、とうとう10人 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30439/1976807

この記事へのトラックバック一覧です: 現代詩手帖から:

« 今月も『現代詩手帖』を読んでいる | トップページ | やっと10人、とうとう10人 »