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2004.11.21

命がけの道楽

『現代詩手帖』11月号を読み終えたところ。後半の89ページから印象に残った言葉を抜き書きしておこう。

(自己の存立にとって切実な動機を有しないものは)思想の名に値しない遊戯であるようにしか思われない。(城戸朱理「手帖時評10:「わたし」の解体を生きるとき」から)

城戸朱理の「手帖時評」は哲学的論考と詩評との合体に挑んだエキサイティングな試み。毎号読むのが楽しみな企画だ。しかも今回は珍しく生の肉声が漏れ聞こえたように感じられた。そのような言葉をもう1つ引いておく。

生きるという切実さに対して、何も教えないものに、なぜ、私達が敬意を払う必要があるというのか?

次は武田肇の「詩書月評:コピーライトを廃棄しクレオール化してゆく。」から。こちらも毎号、アジテーションめいた威勢のよい文章で楽しませてくれる。

諸兄姉の命がけの道楽に実り多からんことを

芭蕉の「余が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」(「柴門ノ辞」)という言葉を思いだした。詩は、その無用さにおいては道楽に過ぎないが、「生きるという切実さ」に触れるところがあって、その意味では「命がけ」である。

詩を、心より脳で書きませんか。

しかし、その「切実さ」に身を委ね、「切実さ」に書かせることに、安住してしまってはならない。武田は釘を刺すことも忘れない。

最後は山本哲也と和合亮一の「対談合評:新人作品をめぐって――無意識の底にうずくまるもの」から山本の発言。

(自己批評の目がないと)詩は書き流しただけのものに終わってしまう。

「脳で書」くために欠かせないのが「自己批評の目」であろう。「命がけの道楽」は「命がけ」だけに、「道楽」だからこそ、厳しいものだ。

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