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2004.11.23

戦場の向こう側に届く想像力

『現代詩手帖』11月号からの抜き書きの最後は山崎るり子の作品で締めくくることにする。山崎は今年、詩集『風ぼうぼうぼう』で晩翠賞を受賞した。その誌上発表が掲載されていることもあって、11月号は山崎の作品が5篇も読むことができる。まずは第一詩集『おばあさん』(1999年)所収の「桃」全文を引く。

「桃は暗やみで食え と/おばあちゃんは言った/桃を食おう/暗がりの中で ぼんぼりのような/桃を食おう/すなすなするうぶ毛も/小さな虫も虫穴も/全部一緒に丸い桃/両手でしっかり爪たてて/何も見なかったことにして/何も感じなかったことにして/暗やみの中/ピチャルピチャル音たてて/汁だらだらだらしたたらせ/甘くてひんやりで/生あたたかい桃/かぶりつこう」

これは池井昌樹のエッセー「優しさの大河、その氾濫をこそ――『おばあさん』から『風ぼうぼうぼう』までの詩篇を巡って」に引用されていたものだ。妻として母として嫁として家に生きる、その「苦しい心の起き伏し」を台所という「静かな魂の避難所」で癒す姿が生々しい。

池井は山崎を評して「作者である自らと素材とに隔たりを置く詩人」だという。しかし山崎の「已むに已まれぬ優しさの氾濫が、その隔たりを一気に取り去る」ことがあるとも。池井は、そうした作品の典型として「桃」を引用した。どうやらその辺りに生々しさの秘密がありそうだ。

『だいどころ』(2000年)、『家は』(2002年)、そして『風ぼうぼうぼう』と詩業を重ねるに連れ、山崎の詩は母親性を強めてきたように見える。たとえば「家は今も」(『家は』所収)。息子の引きこもりという事態を、「新しい生きものに」なるために再び子宮に帰ったのだと、力強く暖かく受け止める母。そして母は息子を「いつか光の中に生み落と」し直すという。さらに『現代詩手帖』7月号に掲載された「風」や11月号に掲載された「受胎」(『風ぼうぼうぼう』所収)といった作品は自分の子どもの母親という個別性を越えて、生命そのものの母親の境地にまで達しているように見える。

池井は『風ぼうぼうぼう』では「素材と作者との隔たりを消し去る一瞬」に出会えなかったとしている。おそらく山崎は『おばあさん』の頃に疑いを感じていた母親性を受け容れ、そのことと引き替えに、母親としての自分をみつめる詩人としての眼力を強めていったのではないか。

最後に『現代詩手帖』2003年1月号から「ダイコン」から。

まな板カタカタいわせて
ダイコンを切っている
ダイコンダイコン小さくなる
カタカタと小さくなる

そういえば
いくさのつらさ教えるの忘れて
送り出してしまった
いまごろ湿った穴の中でふるえてはいないだろうか
行進の列の最後で
足をひきずってはいないだろうか

……略……

小さかったわたしの子ども
突撃の合図にひるまず走れただろうか
向かってくる相手を迷わず倒せただろうか
それとも迷わず来る相手に倒されたか
相手の母親も遠くの台所で
ダイコンを刻んでいるだろうか
カタカタカタカタ
刻んでいるだろうか

……略……

地面カタカタいわせて
ダイコンを切っている
カタカタカタカタ
遠くのほうからも ひびいてくる

母親性を徹底することによって山崎はついに戦場の向こう側にまで届く想像力を手に入れた。激しい暴力の応酬が世界を覆い尽くし、この国においても与党が平和憲法を捨て去ろうとしている。いまこそ、こうした想像力が求められているのだと思う。

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