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2005.01.31

谷川俊太郎「入眠」――「現代詩手帖」1月号から(3)

いつもの「現代詩手帖」、もう2月号が発売されたが相変わらず1月号からの抜書きである。今回は谷川俊太郎の「入眠」から。

氾濫する意味は暴力の前に無力だ
涙もそして
沈黙ももちろん

独り眠れぬまま過ごす夜、普段は聞き過ごしてしまうような物音が妙に耳にまとわりつく。鴉の鳴く声、天井裏から聞こえる得体のしれないきしみ。えも言われぬ不条理感、空虚感に襲われ、詩人はベッドを離れペンを持つ。

書き連ねられた幾多の言葉はそれぞれに意味をはらみ、組み合わされ文脈を構成されることで意味を拡大してゆく。だが詩人を取り囲む世界は暴力に満ちていて、どのような言葉も、その力に抗することは出来ない。

詩人は、しかし、涙も、沈黙も無力であることを知っている。たとえ無力であろうと言葉に賭すほかないのだ。言葉は時に笑顔を産むから。言葉は次なる世代に希望を繋ぐ唯一の回路だから。

短く静かな作品だが内に力強さを秘めている。谷川の10年におよんだ沈黙と復活の意味を解き明かすものとして読むことも、あながち的外れではあるまい。

追伸 ところで2月号の特集は「詩の森文庫――入門から専門へ」。昨年、思潮社が刊行を始めた新シリーズ「詩の森文庫」について、著名詩人24名が既刊10冊の解説や今後の展開への希望などを記している。

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2005.01.27

ようやく20人になりました

ご愛顧頂いております『ブログでつくる詩人名鑑』の収録詩人数がようやく20名に到達しました。10月29日の開設以来、約3ヶ月、われながらよく続いたものです。先日は嬉しい初リクエストを頂き、これまで殆ど接することのなかった安東次男の作品を読み直す機会を得ました。やっぱり続ける価値があるな、とつくづく思いましたね(きたのつづみさん、有難うございました)。そんなこんなで『ブログでつくる詩人名鑑』はまだまだ続きます。これからも、ご支援ご愛顧のほど、トラックバック&コメントを宜しくお願い致します。

■ これまでに収録した詩人たち(掲載順) ■

草野心平
黒田三郎
池井昌樹
飯島耕一
穂村弘
村野四郎
西脇順三郎
寺山修司
平田俊子
岩田宏
中桐雅夫
天野茂典
茨木のり子
谷川俊太郎
伊藤比呂美
堀川正美
高橋睦郎
安東次男
川崎洋
山崎るり子

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2005.01.19

飯島耕一語録――『現代詩手帖』1月号から(2)

抜書き第2段は飯島耕一と福間健二、小池昌代の3人による座談「素手で世界を掴む――詩集『アメリカ』から見えてくるもの」から。座談は終始、飯島耕一の発言を中心に展開されており、またその発言が非常に面白かった。中でも印象的だったものを3つ引く。

だいたい詩はね、ぼんやりした人が書いて明晰な人が読むものなんだよ。……中略……みんなが用心深く利口になったら何にもおもしろくないよ。

なるほど、詩人の「ぼんやり」と読み手の「明晰」が詩の両輪だったのか。そういう意味ではボクは書くほうが向いているかもしれない。

詩までクソマジメになってはね。本音でやったらいいんだよ。デリダとかドゥルーズとかあんまりかっこうつけるよりも本能を大事にしたほうがいい。

おー、やっぱり詩はボクに向いていそーだ、……などと油断しちゃぁいけない。なにしろフランス文学にも日本の古典にも通じている、むしろ主知的な印象の強い飯島の言葉だ。

いまという世の中、どう料理していいのかどう付き合っていいのかわけがわからないことになってきているからね、……中略……そういうときには素手になったほうがいい。

この「わけがわからな」さ、いくら頭をひねってもどうにもならない、というところを十全に認識してこそ、始めて「本能」と「素手」へのひとひねりが可能になるということか。飯島は「バス停に五分間立っただけで、ひどい世の中ってわかるからね」という。こうした感覚、直感的な認識力を飯島は「詩的本能」と呼んでいる。「詩的本能」を研ぎすまし、「素手」で世界を掴む。半世紀に及ぶ詩業の果てに辿りついた飯島の方法論は素朴なように見えて実は奥深いもののようだ。

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2005.01.15

辻井喬「天使が消えた」――『現代詩手帖』1月号から

早いもので1月ももう半ば、さすがにお屠蘇気分も抜け、いつもと変わらぬ暮らしが戻ってきた。そこで遅まきながら『現代詩手帖』読みの仕事始め、1月号からの抜書きを紹介しよう。

1月号は「現代日本詩集2005」と題し、例年通り作品特集号となっている。ベテランから中堅まで日本を代表する40人余りの詩人の新作を一通り読むことができるのだ。その中で先ず眼を引いたのが辻井喬の「天使が消えた」。

もう僕の天使の姿はどこにもない
いよいよ来るべきものが近付いたからなのか
それは大地震でも革命でもないはずだが
それではどんな と聞かれれば答えられない
はっきりしているのはこれからも不安が続き
天使のなかにもいろんな天使がいて
しかし誰も僕の味方ではなかったということだ

「ざんざか」という印象的なオノマトペを伴って繰返し降る雨が歳月を流しさってゆく。どこかバブル期の「おいしい生活」を思わせる若い女たちの華やいだ宴も遥かな過去の思い出となり果てた。そして、いま、眼の前に広がるのは終末の予兆を感じさせる「暗い空」。

辻井は実世界ではいつも「暗い空」を仰ぎながら何かを変えようともがいてきたのだろう。若い時分には社会主義革命に、長じては流通ビジネスと消費文化に、変化の駆動力を求め、結局は果たせなかったのだと思われる。晩年をむかえ、いよいよ暗みを増した空を仰ぐとき、もはや希望を賭すべき何ものもなく、いや本当は、そもそも何もなかったのだと気づく。

声高に叫ばれる空疎な夢や理想よりも、辻井の冷徹な現実認識と淡々とした語り口のほうが却って心に落着きをもたらす。それは僕らもまた「暗い空」の下を黙々と歩んでいるからなのだろうか。

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2005.01.12

深夜のシンビジウム

shinyashinbi

深夜のシンビジウムは
甘やかなワインの香り
苦味も渋みもはらんで
一人の部屋に広がってゆく
桃色の夜明けまで

追伸 ちょっと図に乗りすぎたかな……

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2005.01.09

初リクエストは安東次男

『ブログでつくる詩人名鑑』に初リクエストを頂いた。

はじめまして。きたのつづみと申します。突然ですが、ぜひ、安東次男氏をのせていただけるとうれしいです。よろしくお願いします。(最近、はまりました)(「初めまして。リクエスト、よろしいでしょうか?」より)

きたのつづみさんといえば、以前、このブログで作品「夜」を紹介させて頂いたことがある。

きたのつづみ「夜」
こちらは逆に静かにしみじみと良いです.
すーっと力が抜けてゆく感じ.(「現代詩フォーラムより」から)

早速、『現代詩フォーラム』きたのさんのページを見てみると今も精力的に創作活動を続けられている。また先月からブログ『ゆらら~言葉の居場所』も始められたそうだ。

で、安東次男、だぞ。正直言って余り読んだことのない詩人だ。ボクが知っているのは「六月のみどりの夜は」くらい。

今日また
一人の同士が殺された、
蔽うものもない死者には
六月の夜の
みどりの被布をかぶせよう、

「(一九四九・五・三〇事件の記念に)」との添え書きがある。公安条例反対デモの参加者が警官隊との衝突で死んだ事件のことだ。しかし、この詩には政治的プロパガンダの色合いは一切ない。むしろ重く気だるいメランコリーと読み手の神経にじかに触れてくるような生々しく繊細な感覚が、若い頃の萩原朔太郎を思わせ、印象的だ。

安東次男、これを機に少し意識して読んでみようかと思う。

追伸 きたのさん、リクエスト有難うございました。安東次男、掲載しました。これからも『ブログでつくる詩人名鑑』をご愛顧下さい。

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2005.01.08

アルバム始めました

おなじみfaceさんに写真を誉められてしまった。

ところで、プロフィールの写真をかえられましたか。カッコイイですよ。(「団地の夕焼け」より)

嬉しくてちょっと図に乗ってアルバムを置いちゃいました。これまでに矮猫亭を飾った写真を収めてあります。ご笑覧下さいませ。

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2005.01.05

2004年を振りかえる―ボクの五大ニュース

3回にわたってボクの2004年を振りかえってきた。今日はその締めくくり。今年の五大ニュースを発生順に追ってみる。

新春、勤め先の合併が決まる

新年早々驚いた。勤務先が同業他社と合併することになったのだ。経営企画部時代にシミュレーションをやったことがあるので、そういう意味ではいつ起こってもおかしくなかったのだろうが、まさか、ほんとにやるとは思っていなかった。さらに驚いたことに、合併相手には某有名詩人が勤めている、のが判った。お会いする機会ができたらサインをもらっちゃうもんねぇ。

春、息子が中学生になる

息子が無事に小学校を卒業し中学生に。予想はしていたけど、すっかりナマイキになっちまった。部活(バスケ)と音楽(パソコンでDJの真似ごと)が忙しくて休みもちっともつきあってくれない。背もボクより10センチも高いもんだから叱りつけても迫力のないこと。ま、頼もしくなったとも言えなくもないが……。

夏、ブログを始める

kigaruのサービス停止を機に『矮猫亭日乗』をココログに移転した。ブログを始めてみて感じたのは、トラックバックやコメントの機能には、インターネット上でのコミュニケーションを一層発展させる大きな潜在力があるということ。その力で何かできないかな、と試してみた企画が「9.11,そのとき私たちは」シリーズである。昨年の9月11日から12日にかけて実施したものだが、11月にはsouさん(「9.11のこと」)、12月には聆曜亭さん(「私の2001年9月11日」)がトラックバックして下さった。この経験から確かな手応えを感じたボクは『ブログでつくる詩人名鑑』を開設した。詩に興味がおありのかたは是非こちらにもご参加頂きたい。

夏から秋、スポーツに感動する

日本勢の活躍目覚しかったオリンピックはもちろんのこと、ル・マン24時間では荒聖治の活躍もあってチーム郷が優勝、ひいきの西武ライオンズはプレーオフから這い上がって日本一に、JGTCはこれまたごひいきザナヴィの本山がV2。で、矢も楯もたまらなくなったボクは秋から走り始めた。今年は12月の所沢市民マラソンでハーフを走るつもり。小学校時代、体育がいつも2だったボクとしては大変な野望なのだ。

秋から冬、ダイエットに挑む

走り始めたのは実はダイエットのためでもある。勤め先の健保組合が実施している壮年者健診で脂肪肝を指摘されたボクは一念発起。食事を減らし、平日はウォーキング、週末はランニング、さらに節酒まで。で、ざっと4~5キロの減量に成功したのだが……、この年末年始で2キロも戻ってしまった。さぁ、今日から、また気を引き締めなければ。

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2005.01.03

2004年を振りかえる(詩作篇)

続いては詩作篇。昨年は敢えて詩作を控え詩を読み詩を学ぶことを優先した。その成果の一端はこのブログにも紹介してきたが、本当の成果は今年以降の創作活動で示さなくてはならないと考えている。

言い訳はさておき昨年一年間に書いた詩は僅か二編のみ。しかも、いずれも習作の域を超えないと自覚している。とはいえ習作には習作なりの、あるいは習作ならではの面白さもないわけではなかろう。歳の始めの福笑い代わりにして頂ければ望外の幸いである。


    速度

 その女はいつの間にか現れて、いつも私の前を足早に歩いてゆく。私はその速度に魅せられる。彼女を追わずにはいられないのだ。
 しかし追跡は十五分も続けばましなほうだ。信号機や人混みが邪魔をする。女の汗の匂いにさえ追いつくことはできない。
 その日も私は女を見失った。諦めて地下鉄に乗りこむ。ガラス窓に思い浮かぶ女の後姿。その向う側にコンクリートの壁が続く。
 モーターの唸り。レールの継ぎ目を踏む車輪の音。くぐもった響きの隙間から聞きなれた女の足音が軽やかに降り始める。
 鉄路の西の果て、見なれた工業団地に降り立つ。足音は未だやまない。信号を渡っても、工場の門をくぐっても、足音はついてくる。それとも私が追っているのか。
 薄暗い事務棟の廊下に速さが充満してゆく。女と私は際限のない追跡を無言で共謀する。そして逃走する。やまない雨の中へ。


    同盟

 寒い夜のことだ。

 男はコートのポケットの中でこぶしを握りガッツポーズを作った。小さく、しかし強く。自分だけの、ささやかな勝利を確認しているかのようだった。手のひらに四つの爪跡ができた。うっすらと血がにじんでいた。

 見上げると薄赤い三日月が冷えきった夜空に浮かんでいる。五つ目の爪跡のように。

 男は満足げに歩き出した.ひと気のない夜道を。

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2005.01.02

2004年を振りかえる(映画篇)

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

さて、2004年の振り返り第二弾は映画。作年は19作品と、一昨年の32作に比べれば大幅に減ったが、それでも自分としては少なくない数の映画を見た。もっとも、そのうち映画館で見たのは2作品、『ミシェル・ヴァイヨン』(2003/仏)と『スパイダーマン2』(2004/米)だけで、あとはCATVやレンタルビデオ・DVDだ。

映画についてもベスト3を挙げてみよう。

1.帰らざる河(1954/米)

ご存知ロバート・ミッチャムとマリリン・モンロー主演の西部劇。ミッチャムはシブいし、モンローは愛らしく色っぽい。ガンファイトはかっこいいし、いかだでの河下りは豪快だ。頭を空っぽにして楽しめる。これぞ西部劇である。

2.鉄塔武蔵野線(1997/日)
両親の離婚による転校を控えた小学校最後の夏休み。少年は送電線をたどって1号鉄塔を目指す冒険を企てた。静かな地味な作品であるが、じんわりと胸に沁みるものがある。同じ年頃の息子を持つ身なれば尚更に。

3.運動靴と赤い金魚(1997/イラン)
不思議に懐かしい映画だ。それはボクらが失くしてしまったものを描いているからなのだろう。たとえば、妹を想い、ひたすら走る兄の、その切なく意地らしい、ひたむきさ。マシディ監督の丁寧な描写は、いずれはイランからも失われてしまうものをいとおしんでいるかのように感じられた。

ところで昨日は『ハウルの動く城』を家族三人で見にいった。案の定、おいおい泣かされてしまった。しかも息子にみつかってケラケラ笑われた。悔しい。

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