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2005.02.23

現代詩手帖、2月号の読みどころ(2)

今回ご紹介したいのは加藤典洋の講演録「私にとって詩とはどういうものか」である。加藤は、『村上春樹イエローページ』『言語表現法講義』といった仕事で著名な文芸評論家。この講演は山形県詩人会が昨年12月4日に山形市遊学館で開催したものだ。

さて講演の内容を紹介しよう。前半はまさに「私にとって詩とは」であり、たとえば、高校生の頃に読んだ大江健三郎をきっかけに文学に目覚めたとか、角川文庫の現代詩人全集に読みふけったとか、二十歳過ぎで中原中也に捕まったとか、加藤氏の文学遍歴の一端が披瀝される。しかし、紙数でいえばちょうど折り返し地点あたりから、いま最もホットでポレミックな話題へと突入してゆく。

現代詩における、難解派とライト・ヴァ―ス派、詩の二極分解が大きな問題だと三浦(雅士)さんは指摘されている

この指摘は『手帖』の2004年11月号に掲載された晩翠賞の選評で三浦が提示したものだ。ちなみに受賞作品は山崎るり子『風ぼうぼうぼう』である。それはともかく、ボクが紹介したい読みどころはここから始まる。

加藤は言う。この二極分解は「現代詩が逆境にあって、苦しんでいる。その困難が、こういう形を取っている」ものだ。そして、詩が陥っている逆境については、社会情勢の変化やインターネットの普及により出来した、「誰でも詩が書けるし、何を書いてもいいよっていうような」世界、この、一見、自由で快適な環境こそが、現代詩から力を奪った詩の逆境なのだとする。また、詩の世界で「市場原理が余り働かなかった」こと、そのために「編集者が書き手に、ダメを押せなくなっ」たことも、詩を逆境に落としいれる原因になったと言う。

なぜ「誰でも詩が書けるし、何を書いてもいいよっていうような」世界が逆境になるのか、また、その帰結が、なぜ二極分解なのか。加藤はこの点については余り論理的な説明を示していない。だが、なぜか感覚的にはよく分かる。詩の世界にある種の「ぬるま湯」が感じられることはままあるし、詩の世界が一方では極度にカルト化し、一方では極度に通俗化していることも、しばしば実感されるところだ。だが、その二つの事態のつながりはよく分からない。いや、なんとなくなら分からなくもないが上手く説明できない。ただ、それが詩にとって深刻な事態であることだけはぼんやりと直感される。

詩が二極分解したときに、その一方に立つというのでなく、誰がこの二極分解自身を体現してみせるか。誰かがこの分裂の現場にならなければならない。

これは加藤が示した二極分解への処方箋である。二極分解を体現すること、みずからが分裂の現場となること。率直に言って、その意味するところ、具体的になにをしたらよいかは、よく分からない。だが、分からないながらも思うのは、詩による架橋の試みは、そのようにしか成し得ないだろう、ということだ。

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