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2005.02.25

恒例タネあかし、13ページの7行目

たったいま『現代詩フォーラム』から帰ってきたところ。例によってスレッド型会議室「今読んでいる本の13ページ7行目を書き写すスレ」に投稿してきた。今回、投稿したのは、この1行だ。

限定して、われわれがいま書いている詩の直接の起源である口語自由詩ということであれば、萩

これは野村喜和夫の『現代詩作マニュアル――詩の森に踏みこむために』から拾ったもの。野村はマニュアルの巻頭で現代詩の歴史を概説している。それは、「いま詩を書こうとしている人たちの最大の問題点は、おそらく読む行為が欠けている」こと、という問題意識によるものだ。では、現代詩の歴史の起点をどこにおくのか、明治の新体詩からか、江戸まで遡り蕪村から始めるか、20世紀初頭のモダニスム運動からか、それとも……。

詩史の起点の候補となった詩人、13ページの7行目の最後の文字「萩」から始まる名の詩人は誰か。それは、もちろん、萩原朔太郎である。近代詩を七五調と雅語の呪縛から解き放った、口語自由詩の祖である朔太郎も十分に詩史の起点の資格を持っている。だが野村が選んだのは「戦後」を起点とすることだ。野村は言う。日本の現代詩は、苛烈な戦争体験を契機とした、それまでの詩への疑いから出発している。歴史の起点を戦争におかなければならないことは不幸なことではあるが……。

『現代詩作マニュアル』とはいっても類書と同様、また著者みずから「あとがき」に認める通り、決して、「マニュアル」的な、これを読めば詩が書けるようになる、といった本ではない。むしろ詩を読み学ぶためのハンドブックとして重宝しそうにボクには思われた。野村は言う。「詩においては、読むことはほとんどもう書くこと」であり「それだけでもう幾分か創造的な行為」である。だから野村は敢えて本書を「詩作マニュアル」と名づけることにしたのだろうか。

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2005.02.23

現代詩手帖、2月号の読みどころ(2)

今回ご紹介したいのは加藤典洋の講演録「私にとって詩とはどういうものか」である。加藤は、『村上春樹イエローページ』『言語表現法講義』といった仕事で著名な文芸評論家。この講演は山形県詩人会が昨年12月4日に山形市遊学館で開催したものだ。

さて講演の内容を紹介しよう。前半はまさに「私にとって詩とは」であり、たとえば、高校生の頃に読んだ大江健三郎をきっかけに文学に目覚めたとか、角川文庫の現代詩人全集に読みふけったとか、二十歳過ぎで中原中也に捕まったとか、加藤氏の文学遍歴の一端が披瀝される。しかし、紙数でいえばちょうど折り返し地点あたりから、いま最もホットでポレミックな話題へと突入してゆく。

現代詩における、難解派とライト・ヴァ―ス派、詩の二極分解が大きな問題だと三浦(雅士)さんは指摘されている

この指摘は『手帖』の2004年11月号に掲載された晩翠賞の選評で三浦が提示したものだ。ちなみに受賞作品は山崎るり子『風ぼうぼうぼう』である。それはともかく、ボクが紹介したい読みどころはここから始まる。

加藤は言う。この二極分解は「現代詩が逆境にあって、苦しんでいる。その困難が、こういう形を取っている」ものだ。そして、詩が陥っている逆境については、社会情勢の変化やインターネットの普及により出来した、「誰でも詩が書けるし、何を書いてもいいよっていうような」世界、この、一見、自由で快適な環境こそが、現代詩から力を奪った詩の逆境なのだとする。また、詩の世界で「市場原理が余り働かなかった」こと、そのために「編集者が書き手に、ダメを押せなくなっ」たことも、詩を逆境に落としいれる原因になったと言う。

なぜ「誰でも詩が書けるし、何を書いてもいいよっていうような」世界が逆境になるのか、また、その帰結が、なぜ二極分解なのか。加藤はこの点については余り論理的な説明を示していない。だが、なぜか感覚的にはよく分かる。詩の世界にある種の「ぬるま湯」が感じられることはままあるし、詩の世界が一方では極度にカルト化し、一方では極度に通俗化していることも、しばしば実感されるところだ。だが、その二つの事態のつながりはよく分からない。いや、なんとなくなら分からなくもないが上手く説明できない。ただ、それが詩にとって深刻な事態であることだけはぼんやりと直感される。

詩が二極分解したときに、その一方に立つというのでなく、誰がこの二極分解自身を体現してみせるか。誰かがこの分裂の現場にならなければならない。

これは加藤が示した二極分解への処方箋である。二極分解を体現すること、みずからが分裂の現場となること。率直に言って、その意味するところ、具体的になにをしたらよいかは、よく分からない。だが、分からないながらも思うのは、詩による架橋の試みは、そのようにしか成し得ないだろう、ということだ。

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2005.02.18

現代詩手帖、2月号の読みどころ(1)

まだ1月号の抜書きも終わっていないのに、もう2月号を紹介しようという魂胆である。もしかしたら、この記事を読んで2月号を買うかどうかを決める人もいないとは限らない。そう思うと1月号のカタをつけるよりも、こちらを優先したほうがよいのではないか……などと言い訳も考えた。本当のところは1月号の最後のひとつがなかなか書けないでいるだけなのだが。

さて先ずは特集に目を向けてみよう。今月の特集は「詩の森文庫――入門から専門へ」。『手帖』の出版元でもある思潮社が先月創刊した「詩の森文庫」を紹介するものだ。自社品のPRが特集になっていると思うと、少し悔しい気もするが(1200円の半額くらい返せ!)、さすがは思潮社とも言える。齋藤愼爾・城戸朱理・野村喜和夫の座談会を筆頭に、重鎮から若手まで24名の著名詩人が、それぞれに「詩の森文庫」への想いを語っている――これだけの豪華キャストを揃えられるのは思潮社ならではのことだ。中でも印象的だった小笠原鳥類の言葉を引く。

詩を書くこと及び詩を読むことは迷うことであり、結論のようなものだけが重要なのではなくて、途中経過をいつまでもくねくねと体験することが重要であろう……中略……「詩の森文庫」の<森>は憩いの場所でもあるのだが、読者を迷いに導くような、迷宮のような、いろいろな植物や動物がいるような、そういう暗い場所であってほしいとも思う。……中略……そこを<どう迷うことによって面白くなるのか>を教えるものであってほしい。(「そこで迷うこと――入沢康夫論のように」より」)

クリティック5冊とエッセイ5冊からなる創刊時のラインナップ(下記参照)を見ると小笠原の期待にも十分応えるものになりそうだと予感される。そこには、入門者を含めた読者と共に現代詩の歴史を辿りなおし、その流れを踏まえて詩の現在を位置づけなおそうとする意図が見てとれるからだ。インターネットの普及と進化によって詩の書き手が急増する一方、こうした書き手の多くが現代詩を読むことのないまま書き綴っていると言われる。いずれにとっても不幸な2つの詩の世界の分裂に、現代詩のメインストリームを支えてきた思潮社が架橋をもたらす。そう考えるとワクワクさせられる。注目のシリーズだ。

クリティック

吉本隆明.際限のない詩魂――わが出会いの詩人たち
谷川雁.汝、尾をふらざるか――詩人とはなにか
埴谷雄高.幻視の詩学――私のなかの詩と詩人
鮎川信夫.近代詩から現代詩へ――明治、大正、昭和の詩人
大岡信.昭和詩史――運命共同体を読む

エッセイ

田村隆一.自伝からはじまる70章――大切なことはすべて酒場から学んだ
天沢退二郎他.名詩渉猟――わが名詩選
吉野弘.詩のすすめ――詩と言葉の通路
辻征夫.私の現代詩入門――むずかしくない詩の話
野村喜和夫.現代詩作マニュアル――詩の森に踏みこむために

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2005.02.15

お久しぶりね、13ページの7行目

ご記憶かもしれないが、現代詩フォーラムには「今読んでいる本の13ページ7行目を書き写すスレ」というスレッド型会議室がある。ボクもよく投稿していたのだが2ヶ月ほどサボってしまった。もう「今読んでいる本」ではなくなってしまったので、ここでまとめて紹介しておこう。

それは秘められているにちがいないが

『現代詩手帖1月号』から清岡卓行の詩「ひさしぶりのバッハ」。少年の頃から親しんできたバッハの音楽には「破滅に耐えて生きぬくための/あの美しい旋律」が秘められている。だが、そのメロディーがどうしても思いだせない。最近の清岡の作品は日常的な素材を扱いながら思いがけない美の高みに到る。

て立ち上がってきて、不意打ちのような反時代的な大きな力

『現代詩手帖』2月号から。齋藤愼爾・城戸朱理・野村喜和夫による座談「詩の歴史を横断する――「詩の森文庫」の誘い」より野村の発言。「放っておけば散逸したかもしれない」ような、いわゆる小品・雑文も一冊にまとめてみると思いがけない力強さ示す。昨年、思潮社が刊行を始めた「詩の森文庫」の意義はこんなところにもあると言う。

ラソンの世界最高ペース。かなり幅があるが、多く

高橋尚子の指導者として知られる小出義雄の『知識ゼロからのジョギング&マラソン入門』(幻冬舎)。1キロ3分、これが世界レベルの男子マラソンのペースなのだという。ボクが週末に走るときのペースは1キロ6分くらい(x 10キロ前後)。そもそも比べるべくもないが、やっぱりすごい。それはともかく、この本はボクのようなランニング初心者には恰好の入門書だ。ウォーミングアップとクールダウン、走った後の身体のケア(ストレッチ、アイシング)、この本で学んだことを実践したら長時間走っても余り膝が痛くならなくなった。スピードトレーニングやレース前の調整方法にも触れており中級者にも役立ちそうだ。

この間に読んだ本は他にも何冊かあるのだが、いずれも、たまたま13ページには7行目がなかった。またボクはコミックは対象外と考えているので、ブックオフで週に1冊ずつ買い集めている『頭文字D』も除いた。

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2005.02.10

瀬尾育生「あなたは不死を河に登録している」――現代詩手帖1月号から(6)

抜書きもさすがに飽きてきたが、まだ2つ紹介しておきたい作品がある。今回はそのうちの1つ。瀬尾育生の「あなたは不死を河に登録している」。

錆びついた横浜正金銀行の
階段伝いに降りてくる。
裸足で国家が泣いている。
あおむらさきに夜が死ぬ。
いまもあなたを呼ぶ声がする。(冒頭部分)

なんとも謎めいた異様な書きだしだ。「国家」が裸足で泣く、とはどのような事態なのか。「横浜正金銀行の階段」を降りてくるのは誰か、「国家」なのか。ならば「あなた」も国家か。それとも「あなたを呼ぶ」のが国家なのか。

「横浜正金銀行」(現・三菱東京銀行)は明治時代に日本で唯一の外国為替銀行として発足。それ以来、長く独占的地位を保ったが、敗戦後は普通銀行化され東京銀行に。この作品には他にも「一九三二年」という言葉が登場しており(五・一五事件、上海事変の年)、謎解きのヒントを提供しているようにも思われる。しかし不勉強のせいかボクにはまだ読解できない。いや、そもそも、これらの言葉もまた謎を深めるだけの罠なのかもしれない。

なんとも言いようのない緊張感が全篇に満ちている。一言で言えば「わからない。けど(から?)、かっこいい」作品だ。

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2005.02.09

言葉の不思議をめぐって――現代詩手帖1月号から(5)

1月号からの抜書きもとうとう5回目になる。今回は趣向を変えて散文から引こう。まずは石田瑞穂の「詩書月評――約束のない世界」から。

言葉と身体はどちらも先験的には存在せず、その関係性が初めて両者を可能にする

そんなことがあるものか、カラダは言葉が生まれる前からあっただろう、そんな声が聞こえてきそうだ。だが言葉より先にあったカラダは、言葉が誕生してからの身体と同じものなのだろうか。例えば聞いた話だが、世界には「肩こり」に相当する言葉のない国もあり、その国の人は肩がこらなないという。ところが彼らに「肩こり」という言葉を教えた途端、彼らは肩こりに悩まされるようになるそうだ。

言葉との間に、この不可解な、相互規定的関係が取り結ばれているのは、身体のみに限らない。意志や感情といった精神の領域に属するもの、その外部への現れというべきか、態度、行動すら。杉本真維子の「詩詩月評――私たちはどこまでも過剰なのだ」から引く。

なにを誰にささやかれるか。それによって、人はいかようにも成りえてしまうという、危うい側面がある。……中略……言葉への同化装置も恐れることばかりではない。「私」を立たせ、外へ連れだす機能にも転換できる。「私」の耳にささやけるのは、他者だけとは限らないのだ。

言葉と社会との関係もまた一筋縄ではゆかない。言葉は社会の存立基盤であると同時に、社会によって再生産される。一方、いかに私的な思慮、感慨でさえ、内語を伴わずには形成されないし、意識してであれ無意識にであれ、個々の人が発語しない限り世界は沈黙に沈んだままだ。石田は、そこに言葉の「可能性の領域」を見る。

言語とは、果たして、公的なものなのか、私的なものなのか。否。そのどちらでもないだろう。しかし、それはどんな国家も主体も及ばない、共有の次元をじつに非神話的に語ってもいる。まだ誰も気付いていない、多数的な可能性の領域があることを証してもいるのだ。(「詩書月評――約束のない世界」から)

杉本も言葉が生みだす「国家も主体も及ばない」共有の次元に驚きを隠さない。

「私」とは共有されるものである(「詩詩月評――私たちはどこまでも過剰なのだ」)

同じ一冊に隣り合って掲載された二つの文章、石田の「詩誌月評」と杉本の「詩書月評」が、言葉の不思議をめぐって対話しあっているような、それこそ不思議な光景をまの当たりにした思いがする。それは偶然に一致なのか。それとも詩が言葉の不思議さを際立たせるものだからだろうか。

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2005.02.06

池井昌樹「だれもしらない」――現代詩手帖1月号から(4)

『現代詩手帖』1月号からの書抜きは更に続く。今回は池井昌樹の「だれもしらない」。七五のリズムとひらがなを基調とした6作品(「ひとり」、「夕顔」、「だれ」、「だれもしらない」、「くらし」、「おまつり」、「ごはん」)からなる連作。どれをとっても、人間というのは切なく淋しい生きものなんだなぁ、と嘆息させられる。

だれなのかしらあのひとは
あんなにかなしいおそろしい
あんなにつかれたかおをして
わたしをじっとみるひとの
そのめがあんまりかなしくて
あんまりあんまりさびしくて
まばたきひとつできません
なきだすこともできません
ひとさしゆびをくちにいれ
おもちゃもごはんもそっちのけ
ちいさなちいさなこがひとり
わたしをじっとみています
だれなのかしらあのひとは(「だれ」全文)

池井の言葉は淀みなく滑らかに流れ心地よい。だが油断は禁物。池井は、すっと主客を入れ替えてしまう。その上で、最後は1行目と同じ詩句を持ってくる。あたかも言葉を円環に閉じこめたかのようだ。こういった手口の鮮やかさ、技術の確かさこそが、実は池井の抒情の名手たる所以である。

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