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2005.02.09

言葉の不思議をめぐって――現代詩手帖1月号から(5)

1月号からの抜書きもとうとう5回目になる。今回は趣向を変えて散文から引こう。まずは石田瑞穂の「詩書月評――約束のない世界」から。

言葉と身体はどちらも先験的には存在せず、その関係性が初めて両者を可能にする

そんなことがあるものか、カラダは言葉が生まれる前からあっただろう、そんな声が聞こえてきそうだ。だが言葉より先にあったカラダは、言葉が誕生してからの身体と同じものなのだろうか。例えば聞いた話だが、世界には「肩こり」に相当する言葉のない国もあり、その国の人は肩がこらなないという。ところが彼らに「肩こり」という言葉を教えた途端、彼らは肩こりに悩まされるようになるそうだ。

言葉との間に、この不可解な、相互規定的関係が取り結ばれているのは、身体のみに限らない。意志や感情といった精神の領域に属するもの、その外部への現れというべきか、態度、行動すら。杉本真維子の「詩詩月評――私たちはどこまでも過剰なのだ」から引く。

なにを誰にささやかれるか。それによって、人はいかようにも成りえてしまうという、危うい側面がある。……中略……言葉への同化装置も恐れることばかりではない。「私」を立たせ、外へ連れだす機能にも転換できる。「私」の耳にささやけるのは、他者だけとは限らないのだ。

言葉と社会との関係もまた一筋縄ではゆかない。言葉は社会の存立基盤であると同時に、社会によって再生産される。一方、いかに私的な思慮、感慨でさえ、内語を伴わずには形成されないし、意識してであれ無意識にであれ、個々の人が発語しない限り世界は沈黙に沈んだままだ。石田は、そこに言葉の「可能性の領域」を見る。

言語とは、果たして、公的なものなのか、私的なものなのか。否。そのどちらでもないだろう。しかし、それはどんな国家も主体も及ばない、共有の次元をじつに非神話的に語ってもいる。まだ誰も気付いていない、多数的な可能性の領域があることを証してもいるのだ。(「詩書月評――約束のない世界」から)

杉本も言葉が生みだす「国家も主体も及ばない」共有の次元に驚きを隠さない。

「私」とは共有されるものである(「詩詩月評――私たちはどこまでも過剰なのだ」)

同じ一冊に隣り合って掲載された二つの文章、石田の「詩誌月評」と杉本の「詩書月評」が、言葉の不思議をめぐって対話しあっているような、それこそ不思議な光景をまの当たりにした思いがする。それは偶然に一致なのか。それとも詩が言葉の不思議さを際立たせるものだからだろうか。

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