« 2005年5月 | トップページ | 2005年7月 »

2005.06.30

連チャン!タネあかし

今日も13ページの7行目、連チャンである。

かし彼らは結婚

ドナルド・D・パルマーの『サルトル』(ちくま学芸文庫)から、たったの7文字。これじゃ何が何だかだが、サルトルとボーヴォワールは恋には落ちたが結婚はしなかった、という趣旨のものだ。

それにしても、どうしてこんなに一行が短いのか。コミックっぽいイラストをふんだんに使いながら哲学や社会科学などに関する基本知識を解説した「For Begginers」というシリーズの復刻だからだ。ボクが学生だった頃は手近な入門書として人気があり、大学の生協でも『構造と力』などと隣りあわせに平積みされていたものだ。その1冊、しかも『サルトル』が文庫になって帰ってきていたとは……。

懐かしさに思わず買い求め読み進むにつれ、いっぱしの実存主義者を気取っていた十代の頃が蘇ってきた。しかし次第に懐かしさよりも、あの鋭くとがった日々と今のこの日常との差に戸惑いを覚えた。悔恨と焦燥。あれからボクはいったい何をしてきたのか。そして、これからどこへ向かってゆくのか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.06.29

お久しぶりのタネあかし 13ページの7行目

現代詩フォーラム今読んでいる本の13ページ7行目を書き写すスレと勝手に連携する企画である。そっちに投稿した「13ページの7行目」の出典をこっちでこっそりタネあかししようという寸法だ。早いもので今回が13回目である。

うかがわれる。二つの視点間に交渉が成り立

越川芳明・原成吉・斉藤修三の3人による座談「自分自身を架け橋として――チカーノ/チカーナ詩を語る」から斉藤の発言。アメリカ社会には主流をなす白人とメキシコ系の人たちの間に深い断絶がある。しかも、それは単なる断絶ではなく、明確な力関係が支配しており、両者の視点が交わる余地はない……そういった趣旨のものだ。

掲載誌はご想像の通り『現代詩手帖』。「ボーダー文学最前線」と題してヒスパニック系アメリカ人チカーノ/チカーナの作品を特集した5月号から拾った。ついでに、と言っては申しわけないが、5月号の読みどころを紹介すると、越川・斉藤両氏の編訳によるアンソロジー「チカーノ/チカーナの詩人たち」がよい。ことにゲーリー・ソトの「メキシコ人はジョギングにいそしむ」とジミー・サンティアゴ・バカの「おれじゃなくて誰が」に感心させられた。

バカは昨年9月に次いで2度目の登場(「ふたたび現代詩手帖9月号から」)なのでご記憶のかたもいらっしゃることだろう。「おれじゃなくて誰が」は、ストリート・ギャングが服役を機に自我に目覚める、その瞬間を捉えた自伝的作品。近頃の日本の現代詩には見られない直截的でゴツゴツとした言葉の迫力が感じられる。最終行を引いておこう。

だからさ、「すばらしいね」なんておれが言ってもさ、
 自分以外のいったい誰が信じるっていうんだい?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.06.20

すべて渡の言葉になっていた

シンガー・ソングライターの友部正人が「ジュークボックスに住む詩人」というコラムを『現代詩手帖』に連載している。フォークやロックを中心に様々なミュージシャンと彼らの歌の歌詞を紹介するもので、『手帖』としては少々異色ではあるが、毎号楽しみにしている記事の一つだ。

最新の6月号では4/16に他界した伝説的なフォーク歌手・高田渡が取り上げられていた(「高田渡がやったこと――くつが一足あったなら」)。高田は友部と同年代で若いころから交流があったそうだ。当時の思い出に触れながら、友部は高田の歌について、こんな風に言っている。

高田渡が詩人の詩を歌うとき、詩人の言葉はすでに渡の言葉になっていた。

う~む、さすが。高田の歌の本質、その独自性をズバリと言い当てている。とにかく高田渡が歌うとブルースもシャンソンも現代詩さえ高田渡になってしまう。しかも、その高田渡ぶりが余りにもフォークっぽいのだ。そう思うとますます高田の死が惜しまれてならない。

追伸:faceさん、コメント有難うございました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

満開!花菖蒲

八国山のふもとに広がる一面の花菖蒲。昨日は北山公園に行ってきた。見頃を過ぎたかなと心配しながら出かけたが、久しぶりに妻と歩いた甲斐あって満開だった。遠目に眺めれば紺と白と紫との入り交じる大パノラマ。近づいて子細に見れば、あの独特の草姿、精妙な花姿。まわりでザリガニやメダカを採る子供たちの無邪気な様子が野趣を添える。園内には田んぼもあって若いイネの緑がさわやかだ。梅雨の晴れ間、洗濯ものの乾く間に気持ちもすっきりリフレッシュである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.06.15

お気楽オヤジと『四月物語』

映画の話が続く。『誰も知らない』を見たのが5/28、そして先週の土曜は『四月物語』を見た。日本映画専門チャンネルの番組表をまめにチェックすると、見損ねていた映画がけっこう見られる。なんともありがたいことだが、お手軽な時代になったものだ。

で、『四月物語』だが、とどのつまり岩井俊二は、松たか子は可愛い、と言いたかったのだろう。『Love Letter』も中山美穂の清純な美貌ばかりが目立つ映画だった。ちまたに言う詩情あふれる映像美も確かに魅力ではあるが、それも松たか子の引立て役、中山美穂の刺身のツマと思えてしまう。

もっとも、こちらの関心がそうだからだと言われれば、それまでかもしれない。松たか子(と岩井俊二)のおかげでビール(もどきの「その他の雑酒」)が一層おいしかったのも事実。お手軽な時代を嘆きつつも、その恩恵はしっかり享受する。なんとも脳天気なお気楽オヤジである。我ながら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.06.14

カルミア、満開

Kalmia

咲いた
カルミア、満開


2週間前の写真です。遅まきながらアップしました。いまはもう花は散ってしまいました。来年、また会えるかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.06.13

誰も知らない、知らないのだ

ボクは一応「まとも」な職にありついて、それ相応に妻と子を養っている。法的に見ても倫理的にだって大きく逸脱した行為を冒したことはない。とはいえ、ただの優等生でもなく人並みにヤルことはヤっている、かな。だけどボクは自分が成熟した大人だと胸を張って言うことができない。ボクには何故か、そのように言い切る自信がないのだ。それは、たぶんボクだけのことではなく、そんなオトナたちが少なくないのだと思う、近頃は……。

映画『誰も知らない』を見ていて、ふと、そんなふうに思った。ご承知の通り柳楽優弥がカンヌ国際映画祭・主演男優賞を史上最年少で受賞したことで、昨年、大いに話題となった作品だ。見よう見ようと思いながら見そこねてしまっていたのだが、CATV(日本映画専門チャンネル)のおかげで、ようやく見ることができた。柳楽をはじめとする若い(幼い)出演者たちの初々しく鮮烈な演技。水のきらめきや陽光の暖かさ、透明感を確実に伝えるカメラワーク。そして、それらを導き出し、たくみに構成した是枝裕和の繊細で緻密な演出。なるほど確かに見事な手管だが、この映画の魅力はそれだけではない。

たとえばYOUの演じた母親。未熟で身勝手で、だけど何故か憎めないところがある。だから、こちらも、つい油断して、その未熟さに共感させられてしまう。アタシが幸せになっちゃいけないって言うの!……って、そりゃ十二、三の息子に向かって言うセリフじゃないけど、でも、ちょっと言ってみたくもなるのだ。一方、柳楽の演ずる少年は、そんな母に従い、しっかり者の長男として弟妹の面倒をみようとする。だが、いくら無理をしても年相応の未熟さは隠しおおせようがない。その未熟さ、そして、それゆえの切なさにも共感させられてしまう。三十も年の離れたオジサンであるボクが、実に素直に。

そして、だからこそ、あのラストシーンには何やら爽やかな希望めいたものが感じられるのだ、とボクは思う。自分たちの未熟さが引き起こした悲惨を、未熟さゆえに乗り越えようもなく、それでも背伸びもせずに未熟な者どうしが手と手をつなぎ身を寄せ合って生きてゆく。あ、それでいいんだ、そんな生きかたもアリなんだ、ボクはそう思った。実は、そのほうがシアワセなのではないか、少なくとも自然なのではないか……、とすら。

この作品が高く評価された背景には、そんな風に思うオトナが多くなったことがあるのだと思う。どうしたら大人になれるのか、本当は誰も知らない。知らないまま生きさせられているのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.06.07

待ってました! 頭文字D

6月6日。待ちに待った31巻がついに発売された。『頭文字D』である。昨日は朝から落ち着かず、とうとう昼休みに会社を抜けだし、駅前の本屋へ走ってしまった。いやはや我ながら大人げない。

仕事を終え、疲れた体を電車に押し込み、通勤カバンから『頭文字D』を取り出す。ページを開いた瞬間、伝説のゴッドフット・星野好造に挑む高橋兄弟の戦い、その熱いバトルにボクはもう引き込まれている。

それにしても何という迫力、何という陶酔感。家に着くまでに二回も読んでしまった。いまも消えない余韻の中でただただ次巻を待っている。できれば今度は半年も待たさないで欲しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.06.06

地球交響曲を見た

昨日は妻に誘われて映画『地球交響曲・第五番』を見に行った。地球全体が一つの生命体である、というガイア理論をテーマとしたドキュメンタリー映画のシリーズで、92年に発表された『第一番』以来、既に10年以上にわたって作り続けられているという。

『第五番』は「再会と出会い」・「誕生と死」、という2つのテーマを巧みに融合し、見ごたえのある作品に仕上げられている。過去の作品の引用が随所に見られ、このシリーズを見続けてきた人には懐かしくも感慨深いだろう。一方、ボクのようにこのシリーズを初めて見る者にとっても総集編のようで便宜である。

先月見た『コーラス』といい、こと映画に関しては、最近は妻のアンテナのほうが敏感でセンスもよいようだ。ちょっと悔しい。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2005年5月 | トップページ | 2005年7月 »