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2006.01.25

酔いどれには酔いどれの……

1月25日。先日、読み終えた『ブコウスキーの酔いどれ紀行』から印象に残った言葉を書き抜いておく。

死に至るまでの時間を埋めつくすだけ存分に飲めること

ケルン大聖堂の荘厳な姿を前に、自分が望むのは神の許しや恩寵ではなく酒だと言い切る。なんという酔いどれだろう。だが酔いどれには酔いどれの言い分があるようだ。
あらゆるものをしっかりと見るのは間違いだとわたしは真剣に思っている。それは消耗でしかない。

ものが見えすぎるのは不幸だ。だから酒の力を借りてしっかり見るべきことだけが見えるようにするのだ。どうもそういうことらしい。ではブコウスキーの目にはなにが見えてしまうのだろうか。四六時中、酩酊していなければ見えすぎてしまってたまらないもの、それはなにか。
わたしにとって死はほとんど何の意味もない。次から次へと続くひどい冗談の最後のひとつにしかすぎない。

「ひどい冗談」に満ちた生。どうやらそれが答えらしい。ブコウスキーはまたこんなことも書いている。
わたしの感情はといえば、不具者や責め苦に苛まれた者、呪われた者や堕落したものに歩み寄る。それは同情などからではなく、同胞意識からだ。

彼の目には他者が苦しんでいる「ひどい冗談」も見えすぎてならないようだ。

ボクも酔いどれのはしくれ。ブコウスキーの言うことは分からないでもない。しかし……

もしもわたしが改宗したり、信仰したりしたとすれば、悪魔をひとりぼっちで地獄の炎に包まれたまま見捨てなければならない。

ここまで肝が据わっているわけではない。ブコウスキー、とんでもない酔いどれ野郎だ。

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