« 2006年1月 | トップページ | 2006年3月 »

2006.02.24

グローバリゼーションの中の詩の役割

2月24日。今日も現代詩手帖2月号を読んでいる。第2特集「日欧現代詩フェスティバルin東京」の冒頭に収められた「グローバリゼーションの中の詩の役割」から印象に残った言葉を書き抜いておくことにする。

この記事は昨年12月に開催された「日欧現代詩フェスティバルin東京」でのシンポジウムを収録したものだ。司会は小林康夫、シンポジストはカジミーロ・ドゥ・ブリトー、ジャック・ダラス、カイ・ニエミネン、辻井喬、藤井貞和、夏石番矢、城戸朱理の7名である。先ず司会の小林が口火を切る。

グローバリゼーションというのは世界全体のアメリカ化としても見えてきている……中略……国民国家という社会的な制度にいわばネーションとしての、あるいは人々の魂、同一性をあたえる役目を詩は担ってきた……中略……グローバリゼーションはそういった近代的な国家を解体してしまう……中略……地球全体が同じ均質の文化で包まれてしまう、そういう文化に見えるわけです。そのときにいったい詩はもう一回、どういう役目として自分たちを定義したらいいのか

これに対してダラスはポエトリーとポリティックスは、「ポ」という部分は同じだが相容れないものだと釘を刺す。しかし日本勢はひるまない。城戸は「世界全体のアメリカ化」としてのグローバリゼーションは詩とは全く相容れないものだとする。
グローバリゼーションの問題は、ある意味で世界を均一化するということです。つまり貨幣の流れが、そのまま人間の欲望の流れであり、人間の欲望を充足させるという一つの方向性自体が、アメリカンイングリッシュとドルを基軸にしてしか起こらない構造のなかに世界を巻き込んでいこうとしている。ところがそういったものは、結局のところ、決定的に詩という存在から離反するコードなわけです。

夏石は更に直截的で威勢がよい。
グローバリゼーションという言葉は、アメリカが、あるいはアングロサクソンが、軍事、政治、経済のレベルで、自分たちが中心になり、自分たちが利益を得るための戦略であると思うからです。……中略……グローバリゼーションという卑しい戦略を超えたインタラクション、相互作用が今こそ必要だと思います。

一方、藤井は均質化のなかで進む分断、断片化に抗することを詩人に求める。
バラバラに平板になってしまったそれらを、事実として認めながら再構成していくこと、それが現代の詩人たち――それは同じことが世界でも言えると信じておりますが、バラバラに破片になったところから世界を再構築していくということがいま大きく求められているのではないか

では、それはどのようにすれば可能なのか。ブリトーは言う。
詩が時代を超えて訴えようとしているのは、カオスに従え、人生に従え、自分の愛する道に従え、そして法に従うな、ということです。

城戸もまた固有性を突き詰めてゆくことにその可能性を求める。
固有のもの、個別でしかありえないものを徹底的に突き詰めていくところからしか、実はその先の世界はないと思っています。

グローバリゼーションの名の下で進む均一化と分断、断片化に対し、詩人はいかにして固有性を突き詰めつつ世界の再構築と相互作用、連帯を果たすのか。小林は一連の議論をこのようにまとめた。
詩人というひとりの人間の固有性を賭けて行なわれる。そこが詩の非常に貴重なところだと思います。ですが、それは決して「私」という固有性ではない。……中略……詩が自分の自己満足的な自己意識、根付きを超えて、あくまでも自分の知らないもの、自分の外にあるものとの通路になること。それを言語の根付きとして実現することが極めて重要だと思います。

最後にダラスの言葉を引いておきたい。短いながら詩人の役割を、少なくともその一つを明確に示したものだ。
詩人は生まれながらに抵抗者である

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.02.20

茨木のり子さんが亡くなられた

2月20日。茨木のり子さんの訃報を知る。79歳だったそうだ。鋭い批評精神を社会に言葉に、そして自分にも向けずにはいられない。茨木さんの作品にはそういった厳しく端正な印象があった。「戦後現代詩の長女」と称された人を失ったことは、日本の詩にとって、とても残念なことだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.02.15

詩の秘法のありか―現代詩手帖2月号から

2月15日。『現代詩手帖』2月号を読んでいる。「特集I:『討議 詩の現在』の問い」から印象に残った言葉を抜き書きしておこう。

まずは巻頭の座談記事、藤井貞和・稲川方人・野村喜和夫・城戸朱理による「世界像の変容のなかで」から稲川方人の発言。

人間を侮蔑してはいけない、それが一番重要なことなんです。

文学にとって何が一番大切なことは何なのか、稲川の回答は彼の回答としては少々意外なものであった。そしてはっとさせられた。たしかに文学の原点はここにこそあるはずだ。

続いて高岡修の「詩姦する現在」から。

詩とは絶えず現前する新しい言語のことである。(中略)その作品がいかなる過去に書かれたものであろうと、そこからは絶えず詩の現在が立ち上がる。永遠の一回性をみずみずしくする。

一篇の詩の固有性が却ってその場限りではない永遠の新しさをもたらす。あたかも秘法のようだ。しかし、そのために詩人は……
<詩の現在>に永遠に生成しつづけるただ一篇の詩を書くためだけに、詩人は、詩人自身さえ苛酷に捨象しつづけなければならないのだと。

最後に横木徳久の「限界という価値―『討議 詩の現在』を読む」から。

歴史の中では、どんな人間も「可能性」と「限界性」との両義性を生きていかざるをえない。歴史における「限界性」を見極めることは、決してその作品や詩人の価値を貶めることにはならない。今後「戦争体験」ですら払拭されて、どんな読み方がされようとも、その作品を背後から支えているのは、忘却された「体験」にひそむ「限界性」の価値にほかならない。

歴史の中での「限界性」、これは高岡の「一回性」とも合い通ずる概念であろう。そして、詩人は「限界性」がもたらす価値にもっと注目すべきだ、とする横木の主張は、「人間を侮蔑してはいけない」という稲川の言葉とも通底している。「永遠」やら「可能性」といった浮ついた言葉に酔うことなく、地に足をつけ、そこからぐっと根を張るように掘り下げることが必要だと、野村・城戸の両氏に苦言を呈しているようにも思われた。その掘り下げの深さにこそ詩の秘法があるのだと……。

なお『討議 詩の現在』は昨年11月に思潮社より出版された城戸朱理・野村喜和夫の両氏による著作で、現在活躍中の詩人や作家や批評家らとの2年間にわたる連続討議を収録したものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.02.13

2005年を振返る―創作篇

2月13日。昨年一年間の創作活動について振返る。昨年は下記の5作品の詩をなし、当ブログならびに現代詩フォーラムに発表した。

ムウンストラック―詩のスケッチブックから
カルミア、明日は咲くか―詩のスケッチブックから
団欒
子守唄―詩のスケッチブックから
合唱の鎖―詩のスケッチブックから

またメールマガジン「C-Direct-2U」に下記の5作品を掲載頂いた。うち「冬納め……」については自作解題めいた文章も掲載された。
迷途(3月28日号)
冬納め、あるいは虐殺の予兆に関する記録(7月4日号)
「冬納め、あるいは虐殺の予兆に関する記録」について(7月7日号)
速度(9月5日号)
ムウンストラック―詩のスケッチブックから(10月17日号)
子守唄―詩のスケッチブックから(11月28日号)

今年も1ヶ月半が過ぎようとしている。詩はまだ1作もなしえていない。焦るほどのことでもないが自省すべき点がないわけでもない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.02.10

どうも判然としない……

2月10日。メールマガジン「C-Direct-2U」に近作「団欒」を投稿。あわせて2006年1月30日号「合唱の鎖」が掲載された折の裕氏による解説文について以下のように書き送る。

投稿の前にご質問にお答えしておきたいと思います。相変わらず自作を語るのは苦手で上手く書けないのですが……。
>なら氏は詩の中で、
>> 少しは許せるような気がしてくるのだ
>> あの頃の私を
>> この頃の私を
>と書き、そしてまた
>> そして遂に知るのだ
>> 父母らの鎖の二重螺旋のきつ立を
>> その連なりを自らに許す日
>と書いているその「許し」とは何だろう。

「少しは許せるような気が」する「あの頃の私」とは独りよがりな思い込みから親を始め大人たちに反抗していた頃の「私」を指します。また、そのような「私」の姿に重ねあわされた「私」の息子でもあります。一方、「この頃の私」とは周囲と調和し家族を守るために「思いこみ」を捨て去ろうとしている今の「私」を指しています。

いまの「私」の中には「あの頃の私」と「この頃の私」が並存し互いに憎みあっています。「少しは許せるような気」がするとは、「私」の中のこうした葛藤の微かな氷解の気配を表現したものです。

また「私」はいつの日か自分の息子もそのような葛藤に見舞われることを予感してもいます。「父母らの鎖の二重螺旋のきつ立を/その連なりを自らに許す日」とは、「私」が、そしてその息子が、こうした葛藤を克服し、ともに人類の一員として暴力に抗する連帯を確立する日のことです。この作品は、親子間、世代間の葛藤の克服と連帯への切ない望みを表現しようとしたものです。


裕氏の解説文はこのように締めくくられている。
私はむしろ長じる程に、親の生涯や子の現実を俯瞰することが出来
てなお、むしろそれ故になおさら血縁などというものを信じない。
遺伝子のせいなのだから許すしかないと思えることが健やかなのか、
遺伝子のせいなのだからもうどうしようもないと絶望することが最
後の砦なのか、いずれにしてもヒトであるが故のぜいたくな悩みな
んだろうなと思えて仕方がない。或いはそれさえもヒトであるが故
のキツイ宿命と思う方が文学的でカッコいいのだろうか。

「合唱の鎖」は宿命としての血縁やら遺伝子やらとは一向に関係のない作品だ。裕氏は分かっていて敢えて違う論点を提示して見せたのか。あるいはボクの不出来で作品の趣旨を伝え損ねたものか。どうも判然としない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.02.07

ポッドキャストにはまりそー

2月5日。iTunesにポッドキャストを2件追加。ひとつは心尽こと佐々木健さんによる小説の朗読「STORYTELLER BOOK」。芥川龍之介の短編や宮沢賢治の童話を楽しませてもらっている。もう一つはVOAの「Special English」。初学者用に平易な文章をゆっくり読んでくれるので、ナチュラル・スピードではきっちりとはついていけないボクにはちょうど良い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.02.06

ささやかながら、これも使命と……

2月4日。陽光に誘われ久しぶりに庭に出る。思いのほか風は冷たかったが植木に寒肥を施し、花壇の土ごしらえをする。あまた水仙の芽を認める。

午後、寒風ますます厳しく吹きすさんだが、芝生に散り溜まった落ち葉を掃く。ここにも水仙が多数みずみずしい緑の芽を地上に突き出している。植木の下の裸土はまだ一面の霜柱だが春は確実に近づいてきている。

このような小さな発見の喜びを分かち合うことも、ささやかながらボクの使命の一つだと改めて思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006.02.01

命を使う

2月1日。先日、読んだ島泰三の『安田講堂1968-196』から印象に残った言葉を書き写しておく。

志と言うことができるのは、己の義を志として確立し、それに命をかける決意をした者だけだ。己の義とは何か? 祖先に向かって恥じず、子孫に伝えて恥じないと言える己の生き様ではないか。

ここのところずっと使命ということについて考えていた。それは昨年の11月、faceさんのブログ『な~んちゃって通信』にコメントしたところ、こんな返事をもらったのがきっかけだ。
自分には自分の使命のある場所が
あるんだなとは思いますけど…。
     (「『自由の女神』と『結(ゆい)』」より)

自分は「自分の使命のある場所」にいない。ボクはそのような思いがしてならないのだ。そのためか島の言葉がひどくまぶしく感じられる。
三島由紀夫はまがまがしい暗黒が迫るなかでの、栄光に満ちた死を求めていた。しかし、栄光は彼がその著作のなかで繰り返して夢想したような「ある日、天が開いて天使のラッパとともに輝く光の帯が」降りてくるというようなものではない。栄光は、この日常のただなかにある。

日々の暮らしの中で義を貫き、志を果たした者のみが「栄光」に浴することができるということだろうか。いまのボクには「栄光」は余りに遠く余りにまばゆい。
生きている間には、義を貫かなくてはならないときがあるが、そのときを得ることは、誰にもあることではない。そのときに出あえることは、むしろ幸運なのだ。

そのような「幸運」をボクはつかみ得たのか、つかみ得なかったのか。ボクが恐れるのは、つかんだはずの「幸運」をみすみす手放してしまったのではないか、ということだ。もはや既に……。

最後に安田講堂に書かれた数々の落書きの中でも最も有名な、あの言葉を引いておこう。

連帯を求めて孤立を恐れず
力及ばずして倒れることを辞さないが
力尽くさずして挫けることを拒否する

思えば「使命」は「命を使う」とも読める。ボクも未だ終わるわけにはいかないのだ。この命は未だ燃え尽きていないのだから。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2006年1月 | トップページ | 2006年3月 »