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2006.02.10

どうも判然としない……

2月10日。メールマガジン「C-Direct-2U」に近作「団欒」を投稿。あわせて2006年1月30日号「合唱の鎖」が掲載された折の裕氏による解説文について以下のように書き送る。

投稿の前にご質問にお答えしておきたいと思います。相変わらず自作を語るのは苦手で上手く書けないのですが……。
>なら氏は詩の中で、
>> 少しは許せるような気がしてくるのだ
>> あの頃の私を
>> この頃の私を
>と書き、そしてまた
>> そして遂に知るのだ
>> 父母らの鎖の二重螺旋のきつ立を
>> その連なりを自らに許す日
>と書いているその「許し」とは何だろう。

「少しは許せるような気が」する「あの頃の私」とは独りよがりな思い込みから親を始め大人たちに反抗していた頃の「私」を指します。また、そのような「私」の姿に重ねあわされた「私」の息子でもあります。一方、「この頃の私」とは周囲と調和し家族を守るために「思いこみ」を捨て去ろうとしている今の「私」を指しています。

いまの「私」の中には「あの頃の私」と「この頃の私」が並存し互いに憎みあっています。「少しは許せるような気」がするとは、「私」の中のこうした葛藤の微かな氷解の気配を表現したものです。

また「私」はいつの日か自分の息子もそのような葛藤に見舞われることを予感してもいます。「父母らの鎖の二重螺旋のきつ立を/その連なりを自らに許す日」とは、「私」が、そしてその息子が、こうした葛藤を克服し、ともに人類の一員として暴力に抗する連帯を確立する日のことです。この作品は、親子間、世代間の葛藤の克服と連帯への切ない望みを表現しようとしたものです。


裕氏の解説文はこのように締めくくられている。
私はむしろ長じる程に、親の生涯や子の現実を俯瞰することが出来
てなお、むしろそれ故になおさら血縁などというものを信じない。
遺伝子のせいなのだから許すしかないと思えることが健やかなのか、
遺伝子のせいなのだからもうどうしようもないと絶望することが最
後の砦なのか、いずれにしてもヒトであるが故のぜいたくな悩みな
んだろうなと思えて仕方がない。或いはそれさえもヒトであるが故
のキツイ宿命と思う方が文学的でカッコいいのだろうか。

「合唱の鎖」は宿命としての血縁やら遺伝子やらとは一向に関係のない作品だ。裕氏は分かっていて敢えて違う論点を提示して見せたのか。あるいはボクの不出来で作品の趣旨を伝え損ねたものか。どうも判然としない。

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