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2006.03.03

より狡猾に

3月2日。今日も現代詩手帖2月号を読んでいる。「特集Ⅱ:日欧現代詩フェスティバル in 東京」から福田武人の「二重の要請を生きる」について記しておきたい。

詩人に対して発せられた設問自体がグローバリゼーションのもたらす文化の均質化に対して多様性をといったような答えを促しているように思えるところに私は一種の拘束や制度を感じざるを得なかった。

福田は実に手きびしい。たしかに先日、紹介したシンポでの小林康夫の問いは、議論を一定の方向に仕向けようとする意図が明らかだったと言わざるを得ない。
多数性、差異、個別性など同じ単語・概念をその壊乱的効果を無効化しつつ使う「多様性(でも多数性でも他者性でもなんでもいいが)の言説」とでも呼び得る制度的言説が政治家や「知識人」の言葉、官公庁や大学のパンフレット、マニュアル、その他あらゆる場所に浸透し流通している……中略……この制度的言説は、有効な批判的言説の効果を先回りして、というか、全くそれに反対せずに同じ語彙を使うことで封じ込め……中略……狡猾に批判的思考を押さえ込み、そのことによって思考の均質化を目論み……中略……ひいてはグローバリゼーションに貢献するものであるかもしれない。

福田はそこに「洗練された形に変化しつつ生きながらえている」制度的言説を嗅ぎとり「それに抵抗しなければならない」と言う。だが、どのようにして、それは可能なのか?
このフェスティバルはこれからも継続されるべきである。プログラミングを絶えず裏切り続ける特異な出来事の連続と言う形に変質・変貌され続ける限りに於いて。

福田はこうした「二重の要請」を詩人たちに突きつける。洗練された狡猾な制度的言説を逆手に取り、「フェスティバル」を継続しつつも、その内実を制度的言説に対する裏切りへと変貌させよと言うのだ。

小林の問いが「制度的言説」であったかどうかはボクには分からない。だが今日、詩が直面している困難のひとつが、「帝国主義的言説の二十世紀的野蛮」に比べはるかに狡猾な制度的言説の、その更に上をゆく狡猾さを身につけなければならないことにあるのは確かだと思う。そのように考えるとき小林らの議論は余りにも無邪気に見えてくる。

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