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2006.04.17

光あまねし

4月9日。今年初めて20キロのロングランを試みる。前半、快調にとばし過ぎたせいか、終盤になって低血糖気味になり、最後の1キロ弱は歩くはめに。午後、岡山国際サーキットで開催されたスーパーGT第2戦をTV観戦。夕刻、久しぶりに妻と散歩。柳瀬川のほとりに立つ草野心平の「光あまねし」の石碑を見る。草野さんがこの近くに住んでいたのだと思うと、何故か、ほのぼのとした暖かい気持ちになる。

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2006.04.12

「グラウンド・ゼロ」にたちすくむ

4月6日。辺見庸と坂本龍一の対談『反定義』(朝日文庫)読了。アメリカはグローバリズムの名の下で世界を資源国、労働国、生産国、消費国へと分断、階層化し、そうした体制を暴力によって支配、維持しようとしているのではないか、と語った坂本の言葉が頭から離れない。そうしたグローバリズムに対して、辺見と坂本は、表現活動を通じて、それも反戦や反アメリカといった単純なメッセージを語るのではなく、政治的、国家的なものに回収されることのない、人間の複雑さの地平にまで届くに想像力、神話的な創造力に触れることによって対抗してゆくと語る。しかし、果たして、それは本当に有効な手段なのだろうか。もし有効だとしても、芸術を生業とするわけではない我々一般市民は、どのように生き、どのようにグローバリズムに抗していったらよいのか。

この二人といっしょに、私たちも、勇気をもって、思想と言説の「グラウンド・ゼロ」にたちすくんでみなければならない。

中沢新一による解説の最後の一行だ。辺見と坂本は一見、声高に語っているようだが、実は我々と同様にたちすくんでいる。彼らは、そこから一歩踏み出すために、人間という原点、個という原点へと立ち帰ろうとしているのだろう。もはや何ものにも倚りかかることのできない時代の立脚点として……。

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2006.04.06

現代詩手帖、茨木のり子追悼特集より(3)

4月5日。茨木のり子の追悼特集を読み終える。詩人、批評家らによる26編の追悼文、論考はいずれも茨木の詩と人柄を率直に語っており興味深い。中でも三木卓の次の言葉に感銘を受けた。

個々は、自分という場を絶対視して己の言葉を語ればいい。それが林立して、大きな状況というものが出来る。それが言葉のあるべき姿だ。(「明石の鯛を前にして」より)

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満開の桜の下で

3月31日。午後9時、仕事を終え勤め先を出る。近隣の公園の満開の桜の下、この時間になっても花見宴は甚だ盛会である。騒ぎをよそに通り過ぎ満開の桜並木を歩く。桜木をすっぽりと包む花の様子を虫の卵のようだと観じた萩原朔太郎の詩が思い出される。帰宅後、調べてみると処女詩集『月に吠える』所収の「春の実体」であった。桜花をはじめ春の風物には、心騒ぐ華やかさ艶めかしさばかりではなく、なにか薄気味悪いものが感じられる。

4月1日。久しぶりに妻を誘って花見がてら航空公園へ散歩に赴く。広い公園のそこかしこに花見の宴。我々も池のほとりのベンチでささやかな乾杯をした。夕刻、江戸沢にて食事。ちゃんこ鍋をつつく。差し向かいなれど艶めいたデートの趣はない。そこにあるのは何かもっと地に足の着いた感じの暖かい想いだ。

4月2日。いつものように週末のランニング。通り過ぎる景色に満開の桜木が散見される。八国山から見る西武園ゴルフ場の桜も満開。山を越え遊園地の脇を走れば、園内の、また沿道の桜も満開。多摩湖の桜も、狭山公園の桜も、みな満開。そして我が家の桜も満開である。もっとも芝桜ではあるが……。

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