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2006.05.08

さくら散る頃に

4月12日。映画『座頭市』を観る。以前、日本映画専門チャンネルで放映されたものをHDレコーダに録画しておいたのだ。勝新太郎をおいて他の誰に「市」を演ずることが出来るものかと、たかを括っていたせいで今日まで見損ねていた。が、ふと思い立って観てみると、さすがは北野武、勝の「市」とは違う、独自の「市」像を創り出し演じきっている。褒貶の分かれると聞くタップダンスのシーンも、権力とは無縁な無辜の民衆の逞しさ、力強さを感じさせ、圧巻であった。

4月22日。庭のユキヤナギを掘り起こす。去年の整枝の際に切り詰めすぎたせいか、春になっても新芽が吹かず、しばらく様子を見ていたが、幹も割れ、枯死したものと諦めざるを得なかった。7~8年前、当時の勤め先の近所のビルが取り壊されることになり、カルミアと一緒に貰ってきてから、毎年、春先の庭を白い花と柔らかな樹姿で飾ってくれた。その年月と共にユキヤナギはしっかりと根を張り、スコップと園芸用の小鍬で掘り出すにはえらく力が要った。

堀上げた根塊を見ていると寂しさとは別の感慨が沸いてきた。サルトルの『嘔吐』が思い出されたのだ。マロニエの木の瘤の無意味さに主人公は嘔吐ともに実存を感じ取った、とされるが、ボクはユキヤナギの根塊の無意味さに力を感じた。意味とは近代人が罹患した病、その病に囚われることなく生きてきた植物は生命の本来の逞しさを保っている、そんな風に思われたのだ。

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