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2006.06.02

僕らはどこにも開かない

6月1日。御影瑛路の『僕らはどこにも開かない』を読む。小説を読んだのは昨年の夏に住本優の『最後の夏に見上げた空は』を読んで以来のこと、およそ半年ぶりだ。いずれも電撃文庫、ライトノベルである。実は前回同様、息子に薦められ読んでみたのだ。

『僕らはどこにも開かない』は、複数の登場人物の語りを少しずつ時間をずらしながら重ね合わせて物語を展開してゆくといった、やや手の込んだ手法をとっている。しかし奇を衒った感じはなく自然に読むことが出来る。それはこの手法が物語の主題に相応しいものだったからだと思われる。

高校生6人と教師1人を巻き込んだ殺人事件が解決し(?)、ようやく訪れた穏やかなひととき、主人公は、ふと、こんな風に思う。

僕らはどこにも開かない。
けれど、この程度の疎通は可能なんだ。
それはきっと心地のいいことで、それがあれば幸せになれるのかもしれない。

この物語の主要な登場人物はみな傷つきやすく、自己を閉ざし個=孤に立てこもることで自分を支えているように見える。その一方で個=孤に閉じ込められることに苛立ち、閉塞感を感じてもいるようだ。そうしたことは思春期の少年・少女にはありがちなことかもしれない。あるいは今の世の中が、そうしたことを助長する傾向にあるのかもしれない。いずれにせよボクのような大人にも無縁なことではないし、特定の時代にのみ限られたことでもない、普遍的な問題のだと思う。そのように考えると、ささやかな触合いに幸福をもとめる、いささか予定調和じみた結末もかならずしも悪くはない気がしてくる。

されど詩は、その先を求めずにはいられない。徹底した個=孤の奥底に通底するものを求めずにはいられないのだ。

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