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2007.11.30

『江戸の食卓』を読む

11月25日。『江戸の食卓―おいしすぎる雑学知識』 (歴史の謎を探る会、KAWADE夢文庫)を読む。会社帰りに立ち寄ったコンビニでみつけたものだ。蒲焼はもともと鰻を筒状のぶつ切りにして串に刺して焼いたものだったとか、納豆はもともと味噌汁の具として利用されていたとか、将軍の就任式に供された鯛は今の価値にして数千万円もするものだったとか、といった江戸時代の食にまつわる雑学的な知識が満載の本である。気楽に読めて、ヘーっと呻らせられ、暇つぶしにはもってこい。落語を楽しむための参考情報も得られ、期待以上に収穫の多い一冊であった。

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2007.11.29

『日本仏教史』を読む

11月20日。末木文美士の『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)を読む。日本人が外来思想である仏教をいかに受容し、いかに独自の展開をもたらしてきたのか、こうした観点から書かれたまさに思想史としての仏教史である。渡辺照宏の『日本の仏教』(岩波新書)ともあい通じるところがあるが、より深く詳細な内容となっている。また『日本の仏教』が日本仏教のあり方に対し批判的な視点から書かれているのに対して、『日本仏教史』はより客観的な、むしろ日本人がなぜ仏教を独自のものに変容させてきたのか、を掘り下げることに力点を置いている。本書は日本仏教を理解するためにはもちろん、日本史を理解する上でも大いに役立つ一冊だと思う。

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2007.11.19

『志ん朝の落語(6)』を読む

11月16日。久しぶりに『志ん朝の落語』(京須偕充・編、ちくま文庫)を読む。第6巻『騒動勃発』である。人情噺が好きなボクとしては「抜け雀」や「雛鍔」がお気に入りだが、江戸の長屋の雰囲気が伝わってくる「大工調べ」や「お化長屋」、「三軒長屋」も楽しい。また今まで聞いたことも読んだこともなかった「三方一両損」や「高田馬場」に触れる機会を得たのも大いなる収穫だ。ことに「三方一両損」は江戸の職人気質(かたぎ)、気風(きっぷ)のよさが志ん朝の巧みな江戸弁にマッチしていて何とも小気味よい。これは是非ともCDを手に入れて聴いてみたいものだ。

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2007.11.17

ボクらは明日に間に合うのか

11月2日、ダグラス・スミスの『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社)を読む。普段から漠然と感じていた不安・危機感と自己欺瞞・閉塞感とをズバリ言い当てられたような気がした。このまま経済発展を追及していては、地球環境が持たないし、貧困や格差の問題もより複雑により深刻になるばかりだ。しかし分かってはいるものの具体的な行動がとれない。長時間労働と大量消費とで経済発展を支え、破滅への航路を進む船をこぎ続ける毎日だ。

スミスは言う。ボクらをこの船に縛りつけているのは経済発展という神話、国家という神話、そして、これほどまでに働き消費しなければ幸せになれないという幻想だ。環境破壊がいよいよ深刻になったとき、ボクらはこうした神話・幻想からいやおうなく目覚めさせられる。現実に直面させられる。問題はボクらの目覚めが間に合うのか、手遅れとなってしまうのか、だ。

20世紀の最後の年に予言された目覚めの日をボクらはまだ迎えていないようだ。臨界点は一体どこにあるのか、いつまでなら間に合うのか。今日の延長線上には破滅しかないとしたら、ボクらは別の明日に間に合うことが出来るのだろうか……。

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2007.11.16

今日が明日を、昨日を、変える

10月30日、鈴木義幸の『図解コーチングスキル』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読む。同じ著者による『コーチングが人を活かす』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)のエッセンスを図解にしたものだそうで1時間ほどで読むことができる。通常の目次のほかに「状況別インデックス」もついており、困ったときのトラの巻としては便利そうだ。

さて、多少は覚悟していたものの、思っていた以上に早く『図解コーチングスキル』を読み終えてしまったので、会社帰りの電車の中で読む本を求めて書店に立ち寄ると、コミックの棚に『リアル』6巻(井上雄彦、集英社)を発見。ようやく新刊が出たかと思ったが奥付を見ると既に1年前に発売されていたようだ。どこでどう勘違いしたのか、ボクはてっきり6巻は未刊だと思い込んでいたのだ。さっそく電車の中でページを開くと厳しい現実に直面し苦闘する若者たちの姿が懐かしい。6巻では、これまで憎まれ役だった高橋の生い立ちが描かれており、彼が憎まれ役たらざるを得なかった、そのわけ、その苦しみが伝わってきた。ラストではつらい生い立ちの克服が示唆されており、いよいよ高橋も現在の苦境に正面から立ち向かってゆく時がきたのではないか、と思われた。

今、この瞬間に直面している事態に、どのように対処するのか。立ち向かうのか、立ちすくむのか、それとも逃げるのか。ボクたちは、こうした未来を変えてしまう決断すら、過去の影響を免れない。昨日が今日を作り、今日が明日を作るのだ。しかし今日を懸命に生きることで昨日を克服することも可能なはずだ。今日が明日ばかりか昨日を―その自分にとっての意味を変える。コーチングはそのための技術のひとつなのかもしれない。

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2007.11.10

詩集『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』を読む

10月29日。伊藤比呂美の最新詩集『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』(講談社)を読む。

赤い表紙を開くと先ず隙間なく埋め尽くされた文字の迫力に驚かされる。長編散文詩である上、詩集には珍しく余白を極力排除したページ構成となっているのだ。言葉がほとばしるようなこの作品の迫力に相応しいブックデザインだと思う。この作品は伊藤自身と思わしき女性が老親を抱えながら母として妻として詩人として日々の暮らしに四苦八苦する様子を描いている。生老病死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を加えた八苦、仏教にいう人間の根本的な苦しみの全てに真正面から向き合った作品だといえよう。

またこの作品の重要な要素として異文化、異言語がもたらすディスコミュニケーションがある。外国人の夫と共に長く外国に暮らし、娘も日本語より英語のほうがはるかに達者――異文化、異言語を家庭内に抱え、日本と外国とを行き来しながら生きてゆくことがもたらす困難さが四苦八苦をますます複雑なものにしているのだ。前作『河原荒草』にも見られた、直訳調の日本語により英語で話されていることを示す手法が効果的に使用されており、違和感やもどかしさが手に取るように伝わってくる。

ボクにとって伊藤はある種の神秘性をまとった詩人だ。自らの身体を持て余す拒食症の聖処女として登場した伊藤は、あえて性愛を過激に描く、一種の修法を通じて女であることを受け入れ、さらに出産を境としてアニミスティックな地母神の巫女へと変貌していった。この作品では伊藤は信女であると同時に菩薩であるという秘蹟を示したように思われる。生命そのものへの信仰により救済される、その姿をさらすことで読者に救済をもたらす。それはあたかも衆生救済のためにあえて娑婆に下生した菩薩のようだ。最後の数ページに幾度も幾度も繰り返される「わたしは信じる」そして「生きてる」とのリフレインがそのことを示しているように思われるのだ。

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2007.11.07

映画『ロックンロールミシン』を観る

10月27日。息子がコンサートに出かけてしまい珍しく妻と二人で夕食。映画でも観ながら食べるかとケーブルテレビの番組表をチェックしてみると行定勲の『ロックンロールミシン』を放映するというので観てみることにした。行定と言えば『世界の中心で、愛をさけぶ』が有名だが未見。そもそも行定がメガホンをとった作品は一本も観たことがなかった。

『ロックンロールミシン』は、自分たちのデザイナーズ・ブランドを立ち上げようと奮闘する若者たちのひと夏の経験を描いたもので、青春映画らしく夢と友情と恋、それにほろ苦い想いまでがしっかりと盛り込まれている。奔放のようで影もある女性・めぐみを演じた、りょうがなんとも魅力的だった。若者たちのリーダー格・凌を演じた池内博之の猛々しいほどの存在感もこの映画の中では的を得ていたと思う。映像面もなかなか達者と思ったら、行定は『Love Letter』『スワロウテイル』『四月物語』といった岩井俊二の作品で助監督を務めていたたとのこと。なるほど、である。

それにしても昼は仙涯、夜は『ロックンロールミシン』と取り合わせはともかく芸術の秋を地でいくような一日であった。

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2007.11.02

仙崖の禅画を観る

10月27日。台風20号が関東方面に北上中の朝のこと。妻:だいぶ荒れそうだけど、どうする? ボク:明日にするかぁ。妻:今日だったらxx(息子、高校1年生)も留守だから気楽に出かけられるんだけどなぁ……。

というわけで雨風覚悟で出光美術館に向かった。お目当ては『没後170年記念 仙崖・センガイ・SENGAI―禅画に遊ぶ』展である。仙崖は江戸時代の禅僧で自由闊達な画風で知られる。ボクも名前くらいは聞いたことがあったが、先々週の「新・日曜美術館」で取上げられたのを観て、俄然、興味がわき、この週末に行ってみることにしていたのだ。

さて実際に観てみると、仙崖の作品は機知とユーモアに溢れた親しみやすいものが多く、声を上げて笑いそうになることもしばしばだった。例えば「虎図」と題した小品はどうみても猫にしか見えない絵に「猫に似たもの」との詩文が添えてある。「花見画賛」には描き損じた人物を墨で消して「書きそこない」と書き込んであった。古今東西、こんな画家は他にあるまい。まさに涯画無法。自分の絵は美人と違って笑われることを好む、と記しただけのことはある。

圧巻は「一円相画賛」だ。一円相とは禅画の画題の一つで、図形の丸を一筆で描いただけのものだ。一円相は禅の境地を示すのだそうだが、仙涯はその傍らに「これくふて/茶のめ」との詩文を添えた。もちろん円を饅頭に見立てたパロディだが、禅の境地などというものにこだわっているうちは、まだまだ悟りからはほど遠い、と言っているように感じられた。禅の境地、悟りの境地に至れば、融通無碍な心が得られるそうだが、仙涯の自由自在な画風はまさに融通無碍という言葉がふさわしい。

帰りは案の定、暴風雨のなかを歩く羽目になったが、それも一興と二人して笑いながら家路を辿った。これも仙涯の絵の効果なのかもしれない。融通無碍には程遠い身ではあるが……。

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