« 映画『ロックンロールミシン』を観る | トップページ | 今日が明日を、昨日を、変える »

2007.11.10

詩集『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』を読む

10月29日。伊藤比呂美の最新詩集『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』(講談社)を読む。

赤い表紙を開くと先ず隙間なく埋め尽くされた文字の迫力に驚かされる。長編散文詩である上、詩集には珍しく余白を極力排除したページ構成となっているのだ。言葉がほとばしるようなこの作品の迫力に相応しいブックデザインだと思う。この作品は伊藤自身と思わしき女性が老親を抱えながら母として妻として詩人として日々の暮らしに四苦八苦する様子を描いている。生老病死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を加えた八苦、仏教にいう人間の根本的な苦しみの全てに真正面から向き合った作品だといえよう。

またこの作品の重要な要素として異文化、異言語がもたらすディスコミュニケーションがある。外国人の夫と共に長く外国に暮らし、娘も日本語より英語のほうがはるかに達者――異文化、異言語を家庭内に抱え、日本と外国とを行き来しながら生きてゆくことがもたらす困難さが四苦八苦をますます複雑なものにしているのだ。前作『河原荒草』にも見られた、直訳調の日本語により英語で話されていることを示す手法が効果的に使用されており、違和感やもどかしさが手に取るように伝わってくる。

ボクにとって伊藤はある種の神秘性をまとった詩人だ。自らの身体を持て余す拒食症の聖処女として登場した伊藤は、あえて性愛を過激に描く、一種の修法を通じて女であることを受け入れ、さらに出産を境としてアニミスティックな地母神の巫女へと変貌していった。この作品では伊藤は信女であると同時に菩薩であるという秘蹟を示したように思われる。生命そのものへの信仰により救済される、その姿をさらすことで読者に救済をもたらす。それはあたかも衆生救済のためにあえて娑婆に下生した菩薩のようだ。最後の数ページに幾度も幾度も繰り返される「わたしは信じる」そして「生きてる」とのリフレインがそのことを示しているように思われるのだ。

|

« 映画『ロックンロールミシン』を観る | トップページ | 今日が明日を、昨日を、変える »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30439/16931130

この記事へのトラックバック一覧です: 詩集『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』を読む:

« 映画『ロックンロールミシン』を観る | トップページ | 今日が明日を、昨日を、変える »