雪の日に
1月23日。この冬初めて東京にまとまった雪が降った。はらはらと舞い降りてくる雪片の数々を眺めていると三好達治の詩「雪」を思い出す。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
この詩を始めて読んだのは中学生の頃だ。静かな夜。雪に閉ざされた田園の家並み。その一軒一軒に眠る子供たちの穏やかな寝顔。たった2行の作品から広大なイメージが広がり、その美しさに目のくらむような感覚を覚えたものだ。
それから2~3年後のこと。高校生になったボクは雪をテーマに拙い四行詩を書いた。
降り積もった雪が
しんとして美しいのは
それが病んだ大地のみならず
自分自身の罪をも隠しているからだ
今にしてみれば無様な作品だが当時のボクにとっては三好の「雪」への精一杯のアンサーソングだった。三好の提示した「美」は認めざるを得ない。それどころか抗いがたい魅力がある。だからこそボクはその引力を断ち切りたかった。雪に蔽われた何かを、「美」に隠された何かを、暴き出さなければ、ボクはボクの詩を書き得ない、そんな切迫した気持ちがボクにはあった。
戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は
おれは絶対風雅の道をゆかぬ
17歳の頃に出会った中桐雅夫の詩「やせた心」の一節だ。あれから長い間ボクの「切迫した気持ち」はこの一節に支えられてきたと言えよう。ボクにとって三好の提示した「美」は断じて辿ってはならない「風雅の道」だったのだ。
改めて振り返ってみるとボクはむしろ「おれは絶対風雅の道をゆかぬ」という言葉に魅せられ、その囚われ人となっていたように思う。今のボクは敢えて「風雅の道」を行きたい気持ちがある。むしろ詩はどこまでいっても「風雅の道」でしかないとすら思っている。もっともボクにとっての「風雅の道」は「戦いと飢えで死ぬ人間」から目をそらすものでもない。「戦いと飢えで死ぬ人間」がいるからこそ求められる「風雅の道」を歩んで行きたいと思うのだ。
しかしボクはまだその道を見出せていない。この失語の日々は迷い込んだ雪原のようだ。
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