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2008.04.09

『戦後詩史論』を読む

3月7日、吉本隆明の『戦後詩史論 』を読む。2005年に復刊されたもの(思潮社版)ではなく、以前、古本屋で買い求めた大和書房版(1978年刊行)だ。

この本には「戦後詩史論」、「戦後詩の体験」、「修辞的な現在」の3つの論考が収められている。

「戦後詩史論」は1959年から60年にかけて刊行された『現代詩全集』(ユリイカ版)に分載されたもので、戦後詩の源流をなした昭和初期の詩人たちをはじめ、戦時体制の確立に向かう社会変動の中で台頭した過渡的詩人たち、敗戦の経験に立脚した「荒地」や「列島」の詩人たち、そして50年代後半に登場した戦争の痕跡を持たない詩人たちを主に取り上げ、その思想と社会的背景、方法論や言語表現の特徴について分析している。概ね時間軸に沿った展開となっており現代詩誕生期の通史として読むこともできる。

「戦後詩の体験」は70年代に行われた講演の記録をもとに書下ろされたもので、戦後詩がどのように戦争体験をふまえてきたのかを思想史的な観点から取り扱っている。ここで主に取り上げられているのは「荒地」に代表される戦時中に青春期を過ごした詩人たちだ。彼らは「戦乱によって日常の自然感性を根こそぎ疑うことを強いられ」たため、敗戦の体験を出発点とした思想性の高い作品を創作する一方、その後の平穏な時代にあっても、その日常性への違和感との格闘を余儀なくされた。彼らの戦後とは対照的に、続いて登場した「自覚的な生活過程に戦争の影が無かった」世代にとっては同じ平穏な時代が「もう日常性しかない」時代として捉えられている。そこでは「自己体験を深めていくとか、それを思想化していく」といったことはあり得なくなってしまい、「<もの>そのものになってしまうより生きざまもなければ倫理もない」といった「現在の感性」に立脚した詩が書かれることとなった。

同じく書下ろしの「修辞的な現在」で取り上げられているのは、この「自覚的な生活過程に戦争の影が無かった」世代、「戦後詩の体験の終結」以降に登場した詩人たちだ。「生活の現実の場それ自体に<意味>をうしなった」彼らには「修辞的なこだわり」しか残されておらず、「切実さの中心から等距離に隔たった」多様な修辞のバリエーションを繰り広げるほかなかった。一方、彼らは古典的な感性とも相通じる大衆的な風俗、ことにフォークソングに代表される新しい歌謡との対峙を強いられる。この戦線においても彼らには「修辞的なこだわり」のほかに闘う術を持たなかったのだ。

現在、詩は様式的にある飽和点にしゃにむに駈せのぼり、変質し横溢しようとしている時期におもわれる

「荒地」に代表される世代の詩人たちを支えた、言葉で「じかに、現実を引掻いている感覚」から解放された彼らが、60~70年代に作り出した詩の潮流は80年代、90年代を貫き、今なお現代詩の底流をなしている思われる。この言わば「修辞的な現在」のなれの果てを吉本は新刊『日本語のゆくえ』で「いまの若い人たちの詩は『無』だ」と断じていると言う。大いに興味はあるものの未だ買ったきりで読んではいない。なんとなく読むのが怖い気がしているのだ。

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