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2008.06.20

高浜虚子『五百五十句』を読む

6月4日。高浜虚子の『五百五十句』を読む。もっとも例によって『日本の詩歌』第3巻(中公文庫、1975)に抄録された95句のみである。『五百五十句』は昭和18年に俳誌『ホトトギス』の550号を記念して刊行されたもので虚子が昭和11年から15年までの5年間に読んだ句が収録されている。

この頃の虚子の句は自ら標榜していた写生と花鳥風詠の枠を大きく踏み越えていたように思われる。

秋の風衣と膚吹き分つ(昭11)
濁り鮒腹をかへして沈みけり(昭11)
鉄板を踏めば叫ぶや冬の溝(昭12)

例えば、これらの句は虚子の観察眼が冴え渡り、誰もが見過ごしてしまいそうな一瞬を的確に切り出している。確かにそれは写生の極地ではあるが、長年の写生が育んだ虚子の鋭い感性が余人の感じ得ない、理解し得ない領域に踏み出しつつあるかのように思われるのだ。
我が息を吹きとゞめたる野分かな(昭11)
旗のごとなびく冬日をふと見たり(昭13)
病にも色あらば黄や春の風邪(昭13)
もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭(昭13)
初蝶を夢の如くに見失ふ(昭14)
大寒の埃の如く人死ぬる(昭15)

これらの句ではそうした傾向が著しい。虚子の独特な感性から生まれる直喩・隠喩はもはや写生の領域を越え超現実主義的な雰囲気を作品に与えている。

またこの頃の句には老境の感慨、心境を映した主情的な句も多い。当時、虚子はまだ60歳代前半ではあったが、その頃の平均寿命が40代後半であったことを考えれば、そうした心境に達することに不自然さはない。だが写生・花鳥諷詠を踏み越えたという意味では特筆すべきものがあると思われる。

羽ひらきたるまゝ流れ寒鴉(昭12)
焚火かなし消えんとすれば育てられ(昭13)
打水をよろめきよけて病犬(昭14)
月も亦とゞむるすべも無かりけり(昭14)
高々と枯れ了せたる芒かな(昭14)
廻らぬは魂ぬけし風車(昭15)

これらの句では虚子の心情が風物に仮託され象徴的に表現されていると思われる。さらにはより叙情的に、老いの心境を直接に詠み込んだ句も少なくない。
枯荻に添ひ立てば我幽なり(昭11)
秋風や心の中の幾山河(昭13)
虫螻蛄と侮られつゝ生を享く(昭14)
秋風や相逢はざるも亦よろし(昭15)
我が生は淋しからずや日記買ふ(昭15)

加藤楸邨の解説によると、虚子はこうした事情について以下のように記していたそうだ。
写生主義と自分の胸奥の熱情との距離がだんだん近づいて来て、いつしか両者が合致して一にして二ならざるものになってしまう、必ずその境遇に達するものであります(「写生主義」、1929)

最後に気に入った句をもう少し引いておこう。
熱帯の海は日を呑み終りたる(昭11)
花の如く月の如くにもてなさん(昭12)
鵜の森のあはれにも亦騒がしく(昭13)
泣きじゃくりして髪洗ふ娘かな(昭13)
焚火そだてながら心は人を追う(昭13)
淋しさの故に清水に名をもつけ(昭14)
手鞠唄かなしきことをうつくしく(昭14)

昭和11年。虚子は箱根丸で海路、欧州に赴いた。「熱帯の海は」はその途中、紅海で詠まれた句。海外、殊に気候の大きく異なる熱帯での句詠は、無季詠を認めない伝統俳句の立場に立つ虚子に季題をどうするのかという課題を突きつけたはずだ。虚子は熱帯独特の風物を「熱帯季題」とすることでこの課題に対処した。一見、安易なようにも思えるが、それはそれで花鳥諷詠を貫く現実的な対処法であったといえよう。

「花の如く」は挨拶の文芸という伝統俳句の一つの側面を良くあらわしている。「泣きじゃくりして」は花鳥を詠むように人の営みを詠む虚子らしい句。「手毬歌」もそういった立場から手毬歌を虚心に観察することで得られた感想であろう。なんともいえない切なさが漂い印象的な句だ。

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コメント

  手鞠唄かなしきことをうつくしく 高浜虚子

手元の歳時記を見ていたらちょっと感じの似た句を見つけた。

  童謡かなしき梅雨となりにけり 相馬遷子

相馬遷子(そうませんし、1908―1976)は長野県・佐久出身の医師で水原秋桜子の門人。馬酔木高原派と称された。

  入梅や自由と書いてみたくなり 矮猫

ささやかな自己コメントでした。

投稿: ならぢゅん | 2008.06.25 12:10

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