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2008.07.04

梅原猛の『日常の思想』を読む

6月27日。梅原猛の『日常の思想』(集英社文庫、1986)を読む。本書は1960年から73年にかけて新聞や雑誌に掲載されたエッセイ34篇を収めたものだ。「日常の思想」・「哲学の小経」・「現代文明への問いかけ」の3つのパートに分かれているが、真理の発見への情熱と現代社会への危機感が本書全体を貫いている。

「真理は手近に隠れている」。私は一生、手近に隠れている深い真理を求め続ける旅人でありたいと思っている。(自序)

梅原は日本の哲学なるものは「あまりに深遠すぎ、難解すぎるのではないか」という。それは「一見意味ありげな言葉で内容の空虚を隠す」ものであり、むしろ「日常の世界の言葉を、誰にも分かるように語」るべきだという。
私は多くの創造者のどこかに小児の心をみるが、それは彼らが小児的性格の持主であるというより、やはり彼らは何ものにもとらわれない心をもっているからであろう。小さい欲望や感情にとらわれていたら、とても創造は不可能である。とらわれた心は、自分自身のものをみる眼を限定し、ものの真の姿をみる眼を自ら失ってしまうのだ。(創造について)

梅原にとって日本の哲学は、「哲学」らしさ、アカデミズムにこだわる余りに、真理を捉える眼を失っていると映っていたように思われる。「発見とはその色眼鏡から自由になることである」とする梅原にとって、そうした哲学は、「哲学」という「色眼鏡通じて、ものを見ている」ことに他ならないと考えていたのであろう。

こうした梅原の真理発見へのラディカルな姿勢は真理そのものへの愛に支えられていたようだ。

10 発見や真理を可能にするのはたえざる認識の努力であり、それを可能にするのは、やはり真理あるいは美に対する強い愛である。(「発見」についての覚え書き)

しかし梅原はこうも言っている。
すべての思想は、自己の中なる大きな傷口から生まれるのである。(覆面の思想)

梅原にとって「大きな傷口」とはなにか。それは現代社会への危機意識、現代文明への批判精神であり、それらへの処方箋を描ききれていない自分への苛立ちであったようだ。
現代文明、技術文明の破綻は、おそらくはほぼ決定的であると思われるのに、私は一人の思想家として、この破綻をのがれる明瞭な理論的解決をもち合わせていない(現代文明の悔い改め)

梅原が本書で指摘する現代社会・文明の危機は既に30年が経過した今も古びておらず、その克服は依然として今日的な課題である。
しかしニーチェやロレンスの警告にもかかわらず、肉体はますます労働や戦闘から余計なものとなってゆくのが文明の傾向である。やがて、肉体の構造そのものが、労働する肉体から享楽する肉体に変化してゆくであろう。やがて、頭、胃袋は現在の三倍、性器は現在の五倍もある人間が誕生するかもしれない。(スポーツの思想序説)

私には、ドストエフスキーの予言の方向に、時代は徐々に進行しているように見える。それは聖化された殺人の方向である。今日若者たちは、殺人にほとんど聖なる感激を覚えるかに見える。(ドストエフスキーの予言)

明治時代は、私は、科学のために宗教を否定した時代であると思う。昭和時代は、私は、生産のために道徳を否定した時代になるのではないかと思う。(道徳の死)

現代人は、人を愛するには余りに忙しいのである。彼にとっては時間は、現在しかなく、未来の死などはなく、空虚感はあるが、真の孤独感はないのである。こういう現代人は、愛することが出来ずに、セックスだけをするのである。(愛について)

現代文明は、おのれの思惟と物質の力にたいして絶大な自信をもって、おのれの死を忘れている。そして人間の思惟の力は無限であるという信仰や、物質は永遠に弁証法的に発展するという神話を信じつつ、破滅への道を直行しているように見える。(死を忘れた文明)

私は過去百年間、日本人をささえた価値観は、そういう勤勉ー繁栄ー進歩という価値観であったと思う。(中略)むしろ、このような価値観の上に育った文明そのものが、このような価値観に対して懐疑を投げるのである。(余暇)


梅原は、今日われわれが危機に直面しているのは現代文明の原理が持つ問題点が露呈したためであるとしている。
現代文明は、三つの原理をその内面に秘めている。
(1)自然を支配するのは善である。
(2)生産力をあげるのは善である。
(3)欲望を満たすのは善である。
(中略)しかし、今やこの文明は壁にぶち当たった。その文明のもつ三つの善が、少なくとも、この三つの善の絶対化がはっきり誤りであることがわかったからである。(現代文明の悔い改め)

そして、この危機から脱却するにはこの三つの原理を「根本否定」するほかないとする。
人間は、二つの原点にもどるべきである。一つは自然という原点である。(中略)人間同士ばかりではなく、人間と他の生物が共になかよくやってゆく共存の思想を、人間中心主義のヒューマニズムの思想にとって代わらしめなければならない。(中略)もう一つは、文明は、欲望を越えた何らかの精神的目的をもたねばならないということである。(無明の長夜)

しかし、その実現について梅原は悲観的だ。
私は、もう人類の深い内的悔い改めしか、人類の再生はないように思うのであるが、人類に内的悔い改めが起こるのは、もう人類がどうにもならない状況に追いこまれてからのような気がする。(中略)私は、当分、福音の説法者として生きつつ、私の頭の中で、新しい文明の原理を先取りしてゆかねばならないようである。

梅原は「この破綻をのがれる明瞭な理論的解決をもち合わせていない」ことに歯噛みしながらも、せめて自分だけは現代文明の「根本否定」をなしとげ、著作や講演、そして近年の「授業」を通じて一挙にではなく少しづつ世界を変えようとしているのだと思う。

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