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2008.12.09

『中桐雅夫詩集』を読む

12月5日。久しぶりに『中桐雅夫詩集』(現代詩文庫、思潮社)を読んでいる。ボクが長年とらわれてきた「闘いと飢えで死ぬ人間がいる間は/おれは絶対風雅の道をゆかぬ」(「やせた心」)という詩句を遺した荒地派を代表する詩人だ。心の滓というか、なにか澱んでいるような感じ、ぐたっと緩んでしまったまま引き締まってこない感じを払拭したくて読んでみることにしたのだ。

長田弘が選定・構成を行なったこの詩集は「海」、「戦争」、「弔詞」、「終末」、「少女」と冒頭から戦争体験をモチーフとした作品や、戦争体験を背景としたものと思われる死と暴力のイメージに満ちた作品が続く。中桐自身の言葉を借りれば、「人間自体のうちにひそむ、良心のとがめのない残酷さ」を味わった人間全体の不安、「単数の死ではなく」「メガ・デスに直面した詩人の声」を反映したものだろう(「「われ」から「われわれ」へ」、『国語通信』1969年11月号)。

『中桐雅夫詩集』には詩論として「ヴァジニア・ウルフの死」、「lost generationの告白」、「断片的回想」、そして前掲の「「われ」から「われわれ」へ」の4つの散文が収められている。特に「lost generationの告白」と「断片的回想」は戦中から戦後にかけて思春期・青春期を経験した中桐をはじめとする荒地派の詩人たちの思想と動向を垣間見ることができ興味深い。

政治の将棋の歩になることでもなければ、自分の塔にとじこもって外をみないという態度でもない――そういう姿勢で詩を書いてゆくむなしさを考えると、僕らは戦争中だけではない、これからもずっとロスト・ゼネレエションであらねばならぬのだと思われるのである。(「lost generationの告白」、『荒地』1947年10月号)。

先に挙げた詩句「闘いと飢えで死ぬ人間がいる間は/おれは絶対風雅の道をゆかぬ」の原点を思わせるような言葉だ。中桐は「風雅の道」を行かなかったのと同時に、武勇の道とでも言えばいいだろうか、市民運動や活動家とは一線を画したところで人と社会とをみつめ、時には抗議の声を上げてきた。

そうした姿勢はある意味では中途半端なものかもしれない。しかし詩人としてジャーナリストとして、その中途半端さに耐えつつ書き、生きてきた、中桐の言葉だからこそ、「おれは絶対風雅の道をゆかぬ」という詩句はいつまでもボクをとらえて離さないのかもしれない。

よく今日まで、詩だけは忘れずに生きてきたものだ、と思う。いや、詩だけを支えにして生きてきたといった方が正確であろうか。(「断片的回想」)

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