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2009.04.07

正岡子規『仰臥漫録』を読む

4月3日。正岡子規『仰臥漫録』(岩波文庫、1989)読了。1月に読んだ『墨汁一滴』(岩波文庫、1984)と同様、子規が病床で筆を取った晩年の作品である。しかし『墨汁一滴』が新聞『日本』に連載されたのに対し『仰臥漫録』は公表を前提としておらず、よりあからさまで率直な日々の記録となっている。

明治卅四年九月二日  雨 蒸暑
庭前の景は棚に取付いてぶら下りたるもの
夕顔二、三本瓢二、三本糸瓜四、五本夕顔
とも瓢ともつかぬ巾着形の者四つ五つ

『墨汁一滴』校了から2ヶ月。子規の病状は更に進み最早うつ伏せになることもできなかったという。それでも子規は書くことをやめず、綴じた半紙に仰向けのまま筆を運び『仰臥漫録』の執筆を始めた。とはいえ、その内容は、食事や体温、便通などの記録を主とし、見舞い客や家族との交流、窓外の景物などを加える程度に留まることが多く、『墨汁一滴』ほどの多彩さは見受けられない。しかし、それだけに却って子規の書くことへの強い執念が感じられる。
つくつくぼーし明日なきやうに鳴きにけり

献身的に子規の看護にあたる妹・律への傲慢ともいえるような批判なども交えつつ、約1ヶ月間、子規は1日も休まず筆を執り続ける。しかし病いが進むにつれ精神状態も不安定となり、10月上旬には「この後は逆上のため筆をとらず」と4日間の中断。同月13日には「自殺熱」が「むらむら」と起こり、枕元の小刀で喉を裂き、千枚通しで心臓を突けば死ねるのではないかと記すに至る。その後も容態が安定しなかったのか、「十月廿九日 曇」の記述を最後に『仰臥漫録』は半年近い空白期間を迎える。
梅の花見るにし飽かず病めりとも手震はすは画にかかましを

日記が再開したのは翌35年3月10日。だが、これも3日しか続ない。そして3ヶ月後の6月20日からは「痲麻痺剤服用日記」が記されるようになるが、概ね1日1行、天気や麻痺剤の服用時刻、食事の内容など覚書き程度のものに過ぎない。服用日記も7月29日で途絶え、その後、日付の付された記述は9月3日のみ。花のスケッチの脇に添えられた僅か3行が日記の最後となった。
卅五年
 九月三日夜写
     夜会草ノ花

そのあとには夥しい数の短歌と俳句が残されている。絶命までの16日間に詠まれたものなのか、それとも折に触れて書き残されてきたものなのか、確かなことは分からないが、ボクには前者のように思われる。絵が描けなくなっても、文章が書けなくなっても、子規は最後の最後まで歌と句だけは手放さなかった。そのように思われるのだ。
千本が一時に落花する夜あらん

鳥の子の飛ふ時親はなかりけり


短歌と俳句に混じって夏の季語が羅列されている箇所がある。数えてみたところ114語あった。この季題も詠みたい、あの季題も詠みたい、まだまだ詠みたりない、と子規の呟く声が聞こえるような気がした。
糸瓜さへ仏になるぞ後るるな

明治35年9月19日、子規は34年の短い生涯を終えた。上記の句はそのほぼ1年前、『仰臥漫録』にしたためられた作品だ。前書きに「草木国土悉皆成仏」とある。子規の命日は「糸瓜忌」と呼ばれ今もなお墓前にその偉業を偲ぶ者が少なくないという。

※短歌、俳句はいずれも『仰臥漫録』より引用。

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