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2009.04.07

高麗郷を歩く

4月4日。高麗郷を歩く。ヒガンバナの群生で有名な日高市の巾着田は実はサクラも見事だと聞き、花見がてらハイキングに行くことにした。息子は何やら用事があるというので、妻と二人、西武鉄道のハイキングマップ「高麗の里を訪ねるコース」を頼りに、西武秩父線の高麗駅から聖天院、高麗神社を巡って巾着田に戻る約10キロを歩いた。

駅から高麗川までは歩き慣れた道。まだ息子が小さかった頃は毎年のように巾着田に出かけ、彼岸花を見ながらピクニックをしたり、陽気がよければ川で水遊びをさせたりしたものだ。歩道もなくトラックが行き交う通りを避け、かつて息子の手を引いて歩いた畑間の細道を行く。台の高札場跡や水天の碑に江戸時代の庶民の暮らしが偲ばれる。

鹿台橋で高麗川を渡り聖天院を目指す。8世紀、唐と新羅との連合軍に敗れた高句麗から、この地に逃れ着いた若光王子の菩提寺である。当時、大和朝廷は関東各地に散らばっていた高句麗からの渡来人を高麗に移住させ、若光をその王(こきし)に任命したという。若光は渡来人たちの尊敬を集め、その死後も神として高麗神社に祭られ、また菩提寺・聖天院が創建されたのだそうだ。

山寺は新義真言ほととぎす 高浜虚子

満開の桜に迎えられるようにして山門をくぐると虚子の句碑があった。虚子は1943年に高麗の地に訪れこの句を詠んだ。聖天院は当初、法相宗の寺院として栄えたが後に真言宗智山派に改宗。智山派は12世紀に真言宗の改革を試みた興教大師覚鑁上人の「新義」の流れをくむものだ。虚子は他にも「蛇(くちなわ)氏汝も高麗の遺臣かや」と蛇をからかうような句も残している。

本堂に向かって石段を進むと右手に旅姿の弘法大師像を見つけた。近寄ってみるとその奥に若光王の霊廟があった。思いのほか小さな祠で大師像がなかったら見落とすところだ。霊廟の前に立つと中から参拝を終えた女性が出てきた。すれ違いさまに「○○氏」とボクらの苗字を呼ぶ。なんと妻が通っている韓国語教室の先生だったのだ。先生は日高でも韓国語を教えていて今日はその生徒たちに高麗郷を案内してもらっているとのこと。妻は若光王が導いてくれたみたいだと歓んでいた。

阿弥陀堂、本堂、在日韓国人無縁仏慰霊塔を巡り、高麗神社に向かう。道をはさんで左右に畑や草はらが広がっている。つくし摘みだろうか、野を這うように何かを探している子どもたち。「オモニ」と韓国語で母を呼ぶ声が聞こえる。高麗郷は今でも韓国、朝鮮のかたが多く住んでいるのだろうか。あるいは若光王を偲んで各地から集まってみえるのかもしれない。

高麗の野にオモニ呼ぶ声つくし摘み ならぢゅん

ほどなく高麗神社に到着。鳩山一郎を始め、この神社をお参りした後に首相に就任した政治家が幾人もいることから出世明神とも呼ばれるそうだ。もっともこちらは出世などどうでもよく無病息災、家内安全を祈るばかり。参拝後あらためて境内を巡ると樹齢300年に及ぶというヒガンザクラが満開だった。高麗神社の隣には代々、宮司を務める高麗家の旧宅が公開されている。江戸時代初期の建造で重要文化財に指定されている。こちらのシダレザクラも見ごたえ十分だ。

道を挟んだほぼ向かい側の食道で遅めの昼食。ビールで喉を湿し揚げたての天ぷらを合わせた手打ちうどんを頂く。店を守る老女の上品な佇まいといい印象的な店だが店名を失念してしまった。聖天院の方角に少し戻り出世橋を渡ると、ここからは余り車も通らない畑の辺を歩くことができる。特定の作物を大規模に生産しているという様子でもないが比較的、青麦が目だっていたように思われる。

1時間ほど歩いただろうか、巾着田に到着。うわさ通り土手に立ち並ぶサクラが見事だ。その足元には菜の花畑が広がっており淡いピンクと黄色のコントラストが美しい。妻とボクは草はらに腰を下ろしヒバリの声を聞きながら早春の景色を心行くまで楽しんだ。向こうの土手に韓国語教室の一行の姿が見えた。お互いに手を振り合い二度まで出会えた偶然を喜び合った。その頭上に広がる青空には気の早いツバメが舞っている。

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