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2009.05.26

俳句の誕生―『私自身のための俳句入門』から(4)

高橋睦郎『私自身のための俳句入門』(新潮選書、1992)から冒頭に置かれた「歴史篇」を3回に亘って辿ってきた。それも今回で終わり。いよいよ俳句の登場である。

前回は唱和という源泉から奔出した和歌の流れが歌合を経て連歌に至るまでを見た。高橋はその過程を「ほんらい相手を予想し機知的である和歌があからさまに機知的に」なり、「その機知が一首として他に向かうのでなく、一首の中で対応すると、そこに連歌が生まれる」としている。江戸期に入ると市民層の勃興を背景に連歌の機知は遊戯性を帯び俳諧の隆盛をみる。

そして芭蕉の登場である。機知と遊戯性を高め俳諧に至った和歌の流れ、高橋は芭蕉が「そのありようを正した」としている。それは「詩において、詩であろうとすることにおいて正した」、言い換えれば「俳諧連歌の文芸化」を推し進めたということだ。芭蕉は季と切字という俳句の二大装置を駆使し「詩なるもの」を追求した。その過程は「変成の永久運動」であったと高橋は言う。旧派の月並み調を離れ蕉風と呼ばれる創作理念・作法を確立。そうかと思うと今度はその中心的な美意識である「さび」から「かるみ」への転換を成し遂げる。あたかも「夢は枯野をかけ廻る」かのようだ

芭蕉の登場はしかし俳諧にとって両刃の刃となった。芭蕉以降しだいに発句を独立させる傾向が生じ、蕪村の頃には「発句に較べて連句の数がきわめて少く」なっていたという。その原因について高橋は「芭蕉が俳諧連歌の文芸化を窮極まで推し進めたため、俳諧連歌のままではもはやそれ以上の発達・進化の可能性がなくなった」ためだとしている。

幕末・維新を経て衰退の極まった俳諧から「まだ息のある発句という頭部のみを独立させ」たのは正岡子規だった。子規は俳句が文学であることを宣し、その近代化に勤めた。しかし高橋は子規が「頭部のみを生かすという大手術によって窮極的に活かすのは俳諧」だったとしている。「俳句」の名が示す通り俳諧の「俳」性は近代俳句にも生き続けているというのだ。では俳句が俳諧から相続したものは何か。高橋は本書の「構造篇」で「俳」の本質は批評精神であり、また「句」の本質は「「付句」的なものを期待しつづけた」不完全性である、としている。

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2009.05.21

つつじ燃ゆ(2)

手元の歳時記でツツジを引いてみたら、こんな句があった。

死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり 臼田亜浪

命あるものは皆いずれは死ぬ運命にある。時々刻々と死に近づきつつあると言ってもいいだろう。だからこそ咲き誇る躑躅のように束の間の生を激しく燃やすのだ。ボクはそんな風に読んだ。

臼田亜浪は小諸出身の俳人で明治12年生まれ。この句は大正15年の作品だから、当時、臼田は47歳。今のボクと同い年だ。そもそも比べるべくもないことは承知のうえだが、臼田に引きかえボクはどうしてこうも脳天気なのだろう。トホホ……。

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2009.05.20

つつじ燃ゆ

勤め先の近くにかなり広いツツジの植込みがある。5月も半ばを過ぎると新芽が伸びてきてピンク色の花が埋もれてしまう。新芽の成長の度合いも花のつく高さも一様ではないので、まるで緑の波間にピンクの花が浮いたり沈んだりしているように見える。

新緑に浮きつ沈みつ花つつじ ならぢゅん

ツツジの花を見ると子どものころを思い出す。当時ボクは現さいたま市の公団住宅に住んでいた。広い団地の敷地にはあちらこちらにツツジの植込みがあり、春から初夏にかけては数多くの花が咲いた。子どもたちは誰に教えられたわけでもなく、ツツジの花をむしりその根元を吸った。もちろんボクもその一人だ。微かに甘い蜜の味を今でも憶えている。

それは昭和40年代前半のこと。もう(まだ?)40年以上も前の話だ。

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2009.05.18

唱和から連歌へ―『私自身のための俳句入門』から(3)

あなにやしえをとめを
あなにやしえをとこを

再び原点に立ち戻ってみる。高橋睦郎『私自身のための俳句入門』(新潮選書、1992)で和歌の起源とした伊邪那岐命と伊邪那美命の「愛の歌」の「唱和」である。この歌が神々のものであったことから「公の相聞」という流れが、そして男と女の「愛の歌」であったことから「私の相聞」という流れが、それぞれ流れ出したとボクは思う。そして「唱和」という源泉からは歌合、連歌、俳諧、さらには句会へと続く、もう一つの流れが迸り出たと考えるのだ。

さて先日みたように高橋は、「季」の登場が表現の類型化を招来し、それが「形式を形式として成立させる力」として機能したという。いっぽう類型化は「せっかく成立した形式を沈滞させ、衰弱させる力として働きかねない」、「類型化と多様化とを同時に計らなければならない」とする。そして「和歌の歴史においてこれに大きな力のあったのは、歌合ではあるまいか」としている。

漢詩の到来により公の場から追われることとなった和歌。こうした趨勢に対抗し和歌の存在をアピールするために皇族らを招いた歌合が盛んに開催されたという。アピールという意味では効果は限定的であったかもしれないが、思いがけない副産物として、創作の共同化が表現の多様化をもたらし、和歌を形式の沈滞・衰弱から救い、その命脈を永らえることとなった。さらに高橋が歌合の「進化としてのヴァリエーション」と捉える連歌の誕生をももたらしたのだ。

高橋は連歌誕生の基盤には五・七調から七・五調へ、すなわち二句ないし四句切れから三句切れへの律の変化があったとする。「短歌じたい三句切れがスタンダードになること」が「上の句・下の句の唱和による連歌が一般的になる」ための前提であったとするのだ。そして、こうした変化も「唱和」から、歌いだしである唱句と続ける和句との長短のバランスの必要から生じたものだとしている。

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2009.05.15

季の登場―『私自身のための俳句入門』から(2)

『私自身のための俳句入門』(高橋睦郎、新潮選書、1992)・「歴史篇」は「和歌」の歴史を辿り、俳句の成立に影響を与えた幾つかのターニングポイントを挙げている。まず最初に取り上げられているのは「季」の登場だ。

高橋は万葉集の成立過程や古今集新古今集へと続く和歌の変遷を俯瞰し、この過程において「公の相聞」ないし「本来の相聞」が没落し「私の相聞」に取ってかわられたとしている。いわば和歌の主題の大転換である。「公の相聞」とは天皇の国見に代表される「国土の支配者と国土の支配霊との相聞」を指し、その本質である「人間と天地自然とのあいだにおこなわれる相聞」が「本来の相聞」である。万葉集の原型が成立した頃には「公の相聞」・「本来の相聞」が和歌の主流をなしていたが、次第に恋愛を中心とした人と人との相聞、「私の相聞」に、その坐を奪われたというのだ。

こうした転換の原因について高橋は特に語っていないが、大陸からもたらされた漢詩が支配層に普及し、その公的な教養として重んじられるようになり、ついには和歌にかわって「公の相聞」の主役となったことが挙げられるだろう。高橋の『読みなおし日本文学史―歌の漂泊』(岩波新書、1998)は、こうして「公」の場から追われた和歌の放浪漂泊が、その後の日本文学の展開に大きく影響したとしている。

さて高橋は「本来の相聞」が没落の中で衰えた生命力を補うべく、没落の原因ともなった漢詩から「季」という概念を採り込んだとしている。しかしいつのまにかに主客は転倒し「季」こそが主役の位置を占めるようになる。高橋はそうした状況について「相問はいわば本質であって、これの表現は季のめぐりというかたちをとる」ようになったと語る。もちろん「季」は俳句には欠かせない概念であり、「季」の登場は俳句の成立にとって大きな出来事であったといえよう。しかし高橋によれば、「季」の登場はそれだけではなく、季題・季語に見られるような表現の類型化を招来し、それが「形式を形式として成立させる力」となったとしている。

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2009.05.14

俳句の起源―『私自身のための俳句入門』から(1)

あなにやしえをとめを
あなにやしえをとこを
国産み・島産み神話で知られる伊邪那岐命と伊邪那美命が交わしたあったとされる睦言だ。詩人・高橋睦郎『古事記』に記された、この男神と女神との「愛の歌」の「唱和」こそが「和歌」の起源であると言う。「和歌」は今日、一般的には短歌を指す言葉であるが、ここでは広く日本の伝統的定型詩全体を指している。俳句は「和歌に属する」「現在のところ最も新しい定型詩」であり、「伝統の最先端」に位置するが、いっぽう神々の「愛の歌」の「唱和」という「和歌」の起源とも無関係ではない、としているのだ。


高橋睦郎の『私自身のための俳句入門』(新潮選書、1992)を読んでいる。「歴史篇」、「構造篇」、「終わりに」と「付録」とからなる本書の「歴史篇」を読み終えたところだ。更に読み進める前に一旦ここで高橋の俳句成立史を整理しておきたい。

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