« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »

2009.09.27

米丸を聴く

西武池袋駅地下コンコースには色んな露店(?)がやってくる。まんじゅう屋、洋菓子店、北海道特産展、カバン、インターネット接続サービス、等々。CD・DVDの安売りも定番だ。シルバーウィーク明けの木曜日、ここで『昭和の名人による滑稽噺選・桂米丸』を買った。昨日はチャボヒバの丈詰めの後、芝刈りをしながらiPODでこのCDを楽しんだ。

桂米丸(四代目)は落語芸術協会・最高顧問を務める落語界の重鎮。最新の風俗をとりこんだ都会的な新作落語で人気を博した。ボクは子どもの頃、日曜日にやっていた牧伸二の「大正テレビ寄席」が大好きで米丸の話もその頃に親しんだものだ。

『昭和の名人による滑稽噺選・桂米丸』には「狭き門」、「試着室」、「宝石病」、「手料理」の四作品が収められている。いずれも懐かしい昭和の世風を題材としており、米丸の淡々とした語り口もあってゆったりとした気分にさせてくれる。中でもナンセンスで破天荒な「狭き門」がボクのお気に入りだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.09.26

庭と生きてゆく(3)

シルバーウィーク3日目の火曜日、敬老の日の集まりで妻の実家を訪ねた。義父に園芸用三脚を買ったことを話すと「チャボヒバを切るならノコギリを貸すよ」と言われた。酒の勢いもあって「では借りていきます」。今日はそのノコギリを携えて庭に出た。

植え込みに三脚ハシゴを立てて登るとチャボヒバの頭を少し見上げるくらいの高さまで上がることができた。ひと回り枝の張り具合を確かめ、切った跡が枝葉に隠れるよう狙いをつけて、ノコギリの歯を木の幹にあてる。木に余計な傷をつけないよう、そして自分がハシゴから落ちないよう、慎重にノコギリを挽く。チャボヒバの幹は思ったよりも堅くノコギリはなかなか進まない。木にしてみれば、ここまで生長したものをそうそう容易く切られてはたまらない、ということか。それでも何とか七割がた切れたところでノコギリを反対側に移す。最後は右手で木の頭をつかみ左手でノコギリを挽いて切り離した。ハシゴの道具置きにノコギリを残し木の頭を持ったまま芝生に下りる。今度は先日ケーヨーD2で買った癒合剤を持って登り幹の切り口に塗る。

そんなことを三度くり返すうちに昼どきとなった。食事にしましょうと居間から降りてきた妻が車寄せに置かれた木の頭を見て笑う。「アフロ頭が3つ転がっているみたいでコワい」。なるほどそう見えなくもない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中田さんがスゴい

昨日は職場の懇親会でルミネ・ザ・よしもとへ行った。品川庄司ブラックマヨネーズなどテレビで見知った顔も何組かはあったが初めて見る芸人の方が多かった。それだけこちらが世知に疎くなっているのだろう。

次から次へと漫才コンビ、漫談師が舞台に上がったが、なんと言っても圧巻だったのはトリを務めた中田カウス・ボタンだ。軽妙な話術といい、自由自在なネタの展開といい、正に融通無碍の境地である。このコンビはホンモノだと思った。ホンモノは本当にスゴいのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.09.23

庭と生きてゆく(2)

早いものでシルバーウィークも今日で終わり。宮沢湖で温泉につかったり妻の実家で敬老の日の御祝いをしたり、あとは別にこれと言って特別なこともないまま5日間が過ぎた。

最終日の今日は庭仕事。先ずは妻と二人、自転車で東村山のケーヨーD2に行き、プランターや球根、用土などを購入。戻ったら庭仕事に専念できるよう、途中のスーパーで買い物も済ませた。家に帰ると調理パンや即席スープなどで簡単に腹ごしらえ。食休みもそこそこに早速、庭へ出た。

最初に手をつけたのは花壇。この夏はアサガオを背景にレモンイエローのキンギョソウと淡いピンクのニチニチソウを合わせてみたが、さすがにキンギョソウは草臥れてきたのでスプレー菊のセザンヌと植替えた。初冬まではこの組み合わせで過ごし、後はパンジーかビオラでも植えようと思う。

次は球根の植え付け。春の庭を楽しむには絶対に欠かせない作業だ。長年、芝生の脇に一列に咲かせてきたスイセンを今夏は久しぶりに堀り上げたので、木の樽型プランターに植えてみることにした。同じプランターをもう一つ用意し、こちらには混色のチューリップを植えて並べて置く予定だ。

チューリップ喜びだけを持つてゐる 細見綾子

『新・増殖する俳句歳時記』から。選者の清水哲男は「季語「チューリップ」に名句なし」と手厳しい。「日本人好みの微妙な陰影が感じられない花だからだ」そうだ。ところが掲句はそこを「逆手に取って」みせる。「花そのものに陰影がないからこそ、花と作者との間に陰影が生まれた」と言うのだ。

この句から細見の心の「鬱屈」を読み取るのはなかなか難しい。しかし確かにチューリップには春のなんとなく物憂く気だるい感じを吹き飛ばす勢いのようなものが感じられる。ただ真っ直ぐに背筋を伸ばして春到来の喜びを喜び切る、そんな若々しい力に満ちた佇まいが魅力的な花だ。

チューリップを始めとする春の花々と出会うには厳しい冬を乗り越えなければならない。更にその前に球根を植え種を播かなければならない。今こそ、その時である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.09.20

宮沢湖へ行く

シルバーウィーク初日の昨日はチャボヒバの剪定と芝刈りで終わったが今日は一転、家族揃って宮沢湖へ出かけた。最近できた日帰り温泉の評判がなかなか良いと妻が言っていたのを思い出しハイキングがてら行ってみることにしたのだ。

所沢から池袋線で飯能に向かう。絶好の行楽日和である上、巾着田のヒガンバナが見頃を迎えたこともあり車内は結構こんでいる。次第に鄙びてゆく景色を楽しんでいるうちに飯能駅に到着。宮沢湖まではバスも出ているが大した距離でもないので歩くことにした。青空の下、秋風に吹かれ木々の緑を楽しみながら歩くのは実に心地よい。よほど空気が澄んでいるのか、秩父の山並みの向こうには富士山の姿も見えた。

県の西部広域消防本部を過ぎ左手の駐車場から案内板に従って坂を上ると間もなく「宮沢湖温泉喜楽里別邸」に到着。入湯料1000円で天然温泉からサウナ、寝湯、露天風呂も楽しめる。殊に宮沢湖が一望できる展望風呂はいつまでも浸かっていたいくらいの心地よさだ。ゆっくり温まった後は昼食。もちろん風呂上りの生ビールも欠かせない。ボクらはビュッフェ式レストランを利用したが館内には蕎麦屋もあるそうだ。

ビュッフェは楽しいがついつい食べ過ぎてしまう。しっかり歩いて腹ごなしをしなくては。ボクらは宮沢湖の周りを一周することにした。ヒグラシやツクツクボウシ等まだセミの声もするものの、足元を見ればヤマグリやトチノキの実が幾つも落ちているし、コスモスやヒガンバナといった草花の根元から秋の虫たちの合唱が聞こえる。上を向けば色づき始めた木の葉の向こうに秋らしい澄んだ空が広がっている。

さゞなみをたゝみて水の澄みにけり 久保田万太郎

ハンディ歳時記から。中七の「たゝみて」が効いている。水面の様子が目に浮かぶようだ。宮沢湖の水はこの句ほど澄んでいるわけではないが、それでも秋風に波立つ湖面が夕日に照らされてキラキラと光っている様子は時を忘れて見入ってしまうほど美しい。愛らしい水鳥たちの姿も心を解きほぐしてくれる。

まだ幼なかった息子の手を引いてこの道を歩いたのは10年、いやそれ以上も前のことだ。当時の宮沢湖には小規模ながら遊園地や動物園もあって家族連れや若いカップルの姿が多かった。少子化・高齢化が進んだせいか、今は遊園地も動物園も廃園となり、湖畔には釣り客や中高年の夫婦の姿が目立つ。遊園地の跡地にビニールシートが掛けられたまま風にさらされている遊具を見ていると子どもの声がしない国の行く末を暗示しているもののように思われた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.09.19

庭と生きてゆく

久しぶりに清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』から一句。

鈴虫を放ちわが庭売りにけり 柳田風琴

どんな事情があるにせよ庭を手放すのはつらいことだと思う。そこは家族の歴史の舞台であり思い出に満ちあふれた場所だ。いや飼い犬や飼い猫のように家族そのものだと言ってもいいのかもしれない。庭は家人の手により守られ育てられ、家人と共に生きてきたのだから。そんな特別な場所である庭との避けられない別れであれば、せめて自分の形見に鈴虫を残していきたいと思ったとしても不思議はない。

さて我が家にもささやかながら庭がある。今から十数年前、息子に故郷を残してやりたいばかりに少々無理を押して一戸建てを手に入れた。義父に勧められるまま庭の主木はヒメシャラ、塀際にはチャボヒバを植えた。ここまでは所沢園芸の助けを借りたが芝張りは全くの自力だった。免許はあっても車に乗らないボクは今はなきドイト所沢店に何度も自転車で往復して、張り芝と目土を運んだものだ。ただただ芝生を駆け回る息子の姿を見たいばかりに……もっとも駆け回れるほど広くもなかったが。

それからずっと庭と共に生きてきた。芝生は残念ながらカタバミやヂドメソウに占領されつつある。チャボヒバも随分と背が伸びて剪定しずらくなってきた。そこで今年は意を決して五尺の園芸用三脚を購入。大げさなようだが、これからも庭と共に生きてゆくためには不可欠の投資だ。実際に使ってみると安定感もあって作業が大分やりやすくなった。しかし高さがもう一息たらない。むしろ植木屋にでも頼んで木の丈を詰めるべきなのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.09.07

逢いたいね

2日の「読売俳壇」といえばこんな句もあった。

風涼し働き者の母が好き 杉戸乃ぼる

選者・宇多喜代子の記した通り、ただ「同感」の一語である。母親が元気に立ち働く姿ほど頼もしいものはない。そんな母に無性に逢いたくなる。本作がこうした素朴な共感を呼ぶのは平易で率直な表現によるところが大きいが音韻的な工夫も見逃せない。頭韻を含むア行音の多用が生き生きと元気な感じを、また脚韻を含むイ行音によるアクセントが歯切れのよさをもたらしている。
今ひとたび逢ひたきものは雨の駅にわれを見つけし夫のほほ笑み 山本孝子

『大法輪』九月号の「短歌」コーナーから。ツレアイを失うということはこういうことなのだろうか。自分のこととしては未だ想像もできないが、しみじみと胸に迫るものがある。
吾亦紅百年だって待つのにな 室田洋子

清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』から。「百年だって待つのにな」とは、百年どころか、いくら待っても二度と逢えないことを熟知している者ならではの言葉だ。そんな想いを抱かせる逢えない人がいることは存外しあわせなことなのか、それともやはり不幸せなことなのか。とにもかくにも逢いたいなぁ、もう一度、一度だけでいから逢いたいなぁ……って誰に?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.09.06

夏の終わりに戦争句を

昨日の読売新聞「魂の一行詩」から。

ヒロシマや影が歩きたがっている 福原悠貴
征く前の父の日記や八月来 越前春生

「魂の一行詩」は鬼才・角川春樹が担当、月一回の掲載。「読売俳壇」とは一味違う作品に接することができる。掲句二作とも抑制がきいているだけに却って魂の叫びが感じられる作品だ。秋の気配濃厚な今日、あらためて夏の日を振り返ってみると敗戦の影の依然、黒々と残っていることが強く感じられる。

そういえば今週の「読売俳壇」にもこんな句があった。

スコールは父の無念とおもうべし 沖みさ

宇多喜代子・選。前書きに「サイパンにて」とあったそうだ。渇いて渇いて渇き切って死んでいった兵士にとってスコールはこの上ない甘露であっただろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.09.05

玉川上水を歩く

今日は久しぶりに玉川上水の遊歩道を歩いた。お目当ては小平のしゃぶしゃぶ店「いろりの里」。来週の結婚記念日を前に少し早めだが家族で夕食会をすることにしたのだ。

所沢から新宿線、拝島線と乗り継ぎ東大和駅で下車。駅前にはスポーツ施設のBIGBOXもあり想像していたよりもずっと開けている。今日の散歩はここがスタート。まずは駅から3分ほどのところにある「東京都薬用植物園」に立ち寄る。軽くひと巡りするだけのつもりだったが興味深い植物、珍しい植物が多く思いがけず長居してしまった。

再び駅に戻り線路に沿って西に向かう。ツクツクボウシやヒグラシの声を聞きながら20分ほど歩くと玉川上水だ。川べりの遊歩道に下りる。冷夏とはいえ未だ暑さの残るこの時期だが木陰に延びる遊歩道は川風も吹いて涼しく爽やかだ。そのためかハイカーやランナーの姿が多く、それぞれ思い思いのペースで秋の気配が漂う遊歩道を楽しんでいる。

しばらくすると左手に小さく「こもれびの足湯」という看板が見えた。「ここ、ここ」と妻が言う。以前、友人と散策した時に立ち寄ったことがあり、できれば今日もと思っていたそうだ。閉園まで15分ほどしかなかったが寄ってみることにした。中に入ると思ったよりも広く、ゆったりと湯に足を浸すことができた。それでいて料金は無料。ゴミ焼却施設の廃熱を利用しており排水も焼却施設で再利用されるそうだ。

さて、ここからは幾分、いや大幅に早足である。植物園や足湯でのんびりし過ぎて予約の時間に遅れそうになってしまったのだ。せっかく風情のある遊歩道ではあるが食い気にはかなわない。もはや散歩というより競歩の様相を呈し妻も息子も少し不機嫌な様子である。でも、そのおかげで15分程度の遅刻で済んだし、良い腹ごなしにもなった。ビールが旨い、肉が旨い。少々予算をオーバーしてしまったが、たまの贅沢、良しとしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.09.03

野の花を野にあるやうに

所沢の駅から我が家に向かう道には西武鉄道の線路を戴く土手の傍を通るところがある。この辺りは緩やかなカーブになっていて西所沢から来る列車を写真に収めるには丁度いい具合だ。まして春先には土手に菜の花が咲き鄙びた風情をかもし出すので知る人ぞ知る撮影スポットとなっているらしい。しかし今は秋。日曜写真家の姿は見えず花といえばオシロイバナが咲くばかりだ。

おしろいが咲いて子供が育つ路地 菖蒲あや

ハンディ歳時記から。うちの近所は古い住宅街で余り子供の姿が見えない。しかし少し奥に入ると建売住宅が建ち並び子どもらがはしゃぎまわる一角がある。2、3年前だっただろうか、畑をつぶして家を建てているのを見たときには寂しくなるなぁと思っていたが、今は子どもらの姿を見るのが楽しみだ。少子化を憂う声を聞くようになってから随分たつが、町が元気になるには子どもの声が欠かせない。
野の花を野にあるやうに挿しにけり 杉阪大和

清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』から。華道の心得はこれっぽちもないが、このようなことならやってみたい気がする。土手のオシロイバナでも花瓶に生けてみようか。子どもたちの笑い声も添えられたら我が家も随分にぎやかになるだろうに。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年8月 | トップページ | 2009年10月 »