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2009.12.17

正岡子規『病牀六尺』を読む(2)

正岡子規『病牀六尺』から。

病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。

似たようなことを言う人は多いが、あれだけの病苦に耐えつつ病床随筆4篇を始め多数の作品を残した子規の言葉だと思うと感銘もひとしおである。とは言え子規とても常に悟りすました面持ちでばかりいたわけではない。
余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。

人間の苦痛はよほど極度にまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身の上に来るとはちよつと想像せられぬ事である。


そんなときも子規はユーモアを忘れない。自分自身を冷静に観察し諧謔や洒落を交えて読者に提示する。写生を重んじつつも月並調に堕すことのない子規の俳の精神が感じられる。
窮して而して始めて一条の活路を得、始めより窮せざるものかへつて死地に陥りやすし。

元来、情熱的な、活動的な男であった子規が闘病生活に窮した末に得た「一条の活路」――病床随筆4篇は子規にとってそういったものだったのだろう。

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