2008.07.16

最果タヒ『グッドモーニング』を読む

7月7日。最果タヒの詩集『グッドモーニング』(思潮社、2007)を読む。今年の中原中也賞受賞作品だ。

きっかけはブログでつくる詩人名鑑に最果タヒのリクエストを頂いたことだ。まだ『現代詩手帖』を定期購読していた頃、投稿欄でしばしば最果タヒの名を見かけた。あるとき、ふと、「タヒ」を横書きにすると「死」に見えることに気付き、そのことが記憶に残っていたのだ。しかし当時の作品については印象に残っていない。既にボクが熱心な読者ではなくなってしまっていたからだろう。そんなわけで慌てて『グッドモーニング』を読んでみた次第だ。

支配されていたものに戻ってきて
いまこれを
かき始めている
視界と
言葉をひきはがして(「0」)

巻頭に収められた作品「0」の最初の一連を読んで、この詩集はウロボロスのような円環(=〇≒0)をなしているのではないかと、ボクは思った。ここから旅立ちここに戻る――この詩集は、著者の筆名から連想させられた最果て=死へのタビではなく、意外にも原点に回帰し再び生き始める旅であると、直感したのだ。しかし「yoake mae 1」から「yoake mae 5」と「good morning」の6章に収められた20篇の詩を読み終えたとき、ボクは、その直感はハズレだったと思い知らされた。「0」はそこから始まる「yoake mae」各章の作品群とこそ近しいものであり、最終章「good morning」の作品とは大きな隔たりがある。そこから「0」に立ち戻る回路は開かれていない。
わたしは、衝動に追い立てられて書くさいにきらめいて見えるこの世界をあいしていた。いつかそこにまた、帰りたいと、そして十代の経験に固執し、攻撃的でいなければ出会えないと、一年間思い続けていた。賛美すべきものは攻撃性ではない。うつくしさだ。そう思い出した瞬間、目の前の世界が、懐かしく鮮やかな色を帯びて広がった。(「あとがき」)

久しぶりに見たモネの絵をきっかけに世界は再び輝き始めたとする「あとがき」を読んで、ボクの直感もまんざらではなかったと思いなおした。やはり最果はこの世界に戻ってきていたのだ。例えば、真上から垂直に螺旋運動を俯瞰して見れば、それは平面上の円周をたどって幾度も同じ場所に回帰する円運動に見えるだろう。最果は再び十代の血を抱きしめている。しかし、それは同一平面上での出来事ではない。「0」から出発して「yoake mae」を巡り「good morning」に至る。そこは「0」と同じ世界だが次元が異なっている。それは最果にとっても予想外の出来事ではなかったか。
言葉にすることが
すべてを
台無しにし
わたしが
ここからでていくことを不可能にする(「0」)

最果が出発したのはこのような場所だ。十代の最果がどのような経験をしたのか、「yoake mae」の詩群はその経験を具体的には明かしていない。しかし、最果が自分を取り囲む世界を閉塞感に満ちたものとして受け止めていたことは、はっきりと感じられる。最果は抗いがたい衝動に突き動かされて、その世界を攻撃的な言葉で描く。世界はそのとき思いがけない輝きを示すが、そこに出口が見えていたわけではない。攻撃的な言葉を重ねることで攻撃的な姿勢は一層強固となり、閉塞感もますます強くなる。むしろ最果は、言葉に、詩に幽閉されていると感じていたのではないか。
体が
わたしになにかを
見せることを拒否しているが
わたしをまだ
殺させはしない(「0」)

最果が旅立った場所と辿りついた場所との違いを示唆するヒントがここにあるように思われる。ここには「体」が「わたし」を拒否していると書かれているが、ボクには同時に「わたし」が「体」を拒否しているように見えるのだ。この文章は、「体」が「わたし」を殺そうとしているのか、「わたし」が「体」を殺そうとしているのか、どちらともとれるような構造を持っている。ボクは最初、どちらなのだろうと頭を悩ませたが、よく考えてみれば同じことなのだ。「わたし」が「体」を殺すことも、「体」に殺されることも、いずれも結局は自殺に他ならない。それを押し止めているのは「わたし」なのか、「体」なのか、これもまた決して分かちえないことだ。

少々、「0」に長居しすぎたようだ。「yoake mae 2」に移ろう。この章でまず目を引くのは、「/」や「+」、「*」などの記号が多用された、散文詩とも行分け詩とも言い難い独特の詩形だ。なかでも「苦行」はミスタイプを思わせるような無意味な字句を意図的に並べる等、ペンではなくキーボードで書かれた詩ならではの表現が目立つ。

   わたしの、素肌、を舐めるより 確実な
わたしの
     味
       です。ですますます。べつに
     詩人 *
ですからうまれたときから表現者ですからべつに
べーつーにー
いいです
     愛さないでも(「苦行」)

「苦行」の最後に置かれたこの詩句は、率直な心情の吐露とも自己戯画化を企図した諧謔ともとれるが、いずれにせよ読み手のこの作品に対する評価、毀誉褒貶を左右する箇所だ。ここで、最果は、愛されない肉体を抱えた孤独感を裏返し、自分の肉体は真の自分ではなく、肉体を愛されるくらいなら愛されなくて結構だと、肉体と他者とを激しく拒絶している。「yoake mae 2」から「yoake mae 3」の詩群には、このように自分の肉体と他者とを拒み自我に内閉するような趣きを持った作品が多い。

「yoake mae 4」に至ると変化の兆しを感じさせる作品が登場してくる。妊娠を主要なモチーフとした作品「死なない」である。

わたし、
妊娠して、
祝ってください
祝ってください窓からでもいいから開けて、こちらを、
みてください、妊娠したんですよ、わたしは妊娠したんですあなたたちの、あなたたちのかぞくを
う、

うむんですよ。(「死なない」)


妊娠のモチーフは「yoake mae 3」の「非妊」にも登場するが、ここではまだファンタジックな空想の色彩が強く肉体を受け入れた様子は感じられない。「yoake mae 4」の「博愛主義者」でも妊娠が取り上げられているが、「私」は妊娠を受け入れることができず、むしろその原因となった「女みたいな顔して、あなたをまっていた」ことを悔やんでいる。肉体と他者とを受け入れかけたことを悔やみ、いっそう激しく拒絶しようとしているのだ。しかし「死なない」では妊娠は祝うべきこととして捉えられており、それどころか出産によって「あなたたち」との間に「かぞく」という回路を開こうとさえしている。
きっと
捨てられています・・
かぞく ですから(「死なない」)

この大胆かつ強行な転回を目指した目論見はこの作品では成就しない。だが程なく夜明けを向かえ「good morning」の章で実現されることになる。
日にやけてずるずるになった肌が泥になって、
それを洗い流して銭湯
に入る
子供達が何人も、先にあたたまりながら、
わたしはその真ん中でおんなじぬくもりで温まるよ
そう、だね(「再会しましょう」)

自己と他者とが「おんなじぬくもり」を媒介にして繋がりあっている。直接触れ合っているわけではないが、肌と肌、肉体と肉体とを通じて回路が開かれた感がある。寒々とした言葉を旅してきた者にとっては、ほのかな灯りがともったように感じられる詩句だ。「good morning」の冒頭に置かれたこの作品はタイトルからして既に他者への拒絶を解除し自己を開き放ったことが示唆されている。この章には「再開しましょう」の他に「きみを呪う」と「世界」との3作品が収められているが、いずれの作品においても世界は危機的なものとして描かれている。しかし「yoake mae」各章の詩群で顕著であった閉塞感は感じられない。それは、最果の世界に対峙するその姿勢に大きな変化があったためと思われる。

世界は依然として危機的であり同時に「うつくしい」。だが、最果はもう自我の内側にうずくまろうとはしない。無限螺旋階段の新たな高みを目指して世界のただ中に打って出ようとしている。ボクにはそのように感じられるのだ。

人と人の間を疾走している。きみたちはわたしたちをなんと呼ぶ? 名前がない間わたしたちは疾走をしている。そうして竜巻をつくりあげていく。きみたちをめちゃめちゃに切り裂きながらわたしたちはああ孤独だと
叫んでいる。(ああ)

(うつくしい世界)(「世界」)


久しぶりに現代詩を、しかも新進気鋭の若手の作品を読んで、自分の帰る場所はやはりここにしかないと痛感させられた。たとえそれが世迷い言であっても構わない。ボクのような世迷い人はいつまでも世迷い言を書き連ねてゆくほかはない。例えそれが無限に続く螺旋階段であったとしても、いや同じ円周の上を這いずり廻ることでしかなかったとしても……。

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2008.07.04

梅原猛の『日常の思想』を読む

6月27日。梅原猛の『日常の思想』(集英社文庫、1986)を読む。本書は1960年から73年にかけて新聞や雑誌に掲載されたエッセイ34篇を収めたものだ。「日常の思想」・「哲学の小経」・「現代文明への問いかけ」の3つのパートに分かれているが、真理の発見への情熱と現代社会への危機感が本書全体を貫いている。

「真理は手近に隠れている」。私は一生、手近に隠れている深い真理を求め続ける旅人でありたいと思っている。(自序)

梅原は日本の哲学なるものは「あまりに深遠すぎ、難解すぎるのではないか」という。それは「一見意味ありげな言葉で内容の空虚を隠す」ものであり、むしろ「日常の世界の言葉を、誰にも分かるように語」るべきだという。
私は多くの創造者のどこかに小児の心をみるが、それは彼らが小児的性格の持主であるというより、やはり彼らは何ものにもとらわれない心をもっているからであろう。小さい欲望や感情にとらわれていたら、とても創造は不可能である。とらわれた心は、自分自身のものをみる眼を限定し、ものの真の姿をみる眼を自ら失ってしまうのだ。(創造について)

梅原にとって日本の哲学は、「哲学」らしさ、アカデミズムにこだわる余りに、真理を捉える眼を失っていると映っていたように思われる。「発見とはその色眼鏡から自由になることである」とする梅原にとって、そうした哲学は、「哲学」という「色眼鏡通じて、ものを見ている」ことに他ならないと考えていたのであろう。

こうした梅原の真理発見へのラディカルな姿勢は真理そのものへの愛に支えられていたようだ。

10 発見や真理を可能にするのはたえざる認識の努力であり、それを可能にするのは、やはり真理あるいは美に対する強い愛である。(「発見」についての覚え書き)

しかし梅原はこうも言っている。
すべての思想は、自己の中なる大きな傷口から生まれるのである。(覆面の思想)

梅原にとって「大きな傷口」とはなにか。それは現代社会への危機意識、現代文明への批判精神であり、それらへの処方箋を描ききれていない自分への苛立ちであったようだ。
現代文明、技術文明の破綻は、おそらくはほぼ決定的であると思われるのに、私は一人の思想家として、この破綻をのがれる明瞭な理論的解決をもち合わせていない(現代文明の悔い改め)

梅原が本書で指摘する現代社会・文明の危機は既に30年が経過した今も古びておらず、その克服は依然として今日的な課題である。
しかしニーチェやロレンスの警告にもかかわらず、肉体はますます労働や戦闘から余計なものとなってゆくのが文明の傾向である。やがて、肉体の構造そのものが、労働する肉体から享楽する肉体に変化してゆくであろう。やがて、頭、胃袋は現在の三倍、性器は現在の五倍もある人間が誕生するかもしれない。(スポーツの思想序説)

私には、ドストエフスキーの予言の方向に、時代は徐々に進行しているように見える。それは聖化された殺人の方向である。今日若者たちは、殺人にほとんど聖なる感激を覚えるかに見える。(ドストエフスキーの予言)

明治時代は、私は、科学のために宗教を否定した時代であると思う。昭和時代は、私は、生産のために道徳を否定した時代になるのではないかと思う。(道徳の死)

現代人は、人を愛するには余りに忙しいのである。彼にとっては時間は、現在しかなく、未来の死などはなく、空虚感はあるが、真の孤独感はないのである。こういう現代人は、愛することが出来ずに、セックスだけをするのである。(愛について)

現代文明は、おのれの思惟と物質の力にたいして絶大な自信をもって、おのれの死を忘れている。そして人間の思惟の力は無限であるという信仰や、物質は永遠に弁証法的に発展するという神話を信じつつ、破滅への道を直行しているように見える。(死を忘れた文明)

私は過去百年間、日本人をささえた価値観は、そういう勤勉ー繁栄ー進歩という価値観であったと思う。(中略)むしろ、このような価値観の上に育った文明そのものが、このような価値観に対して懐疑を投げるのである。(余暇)


梅原は、今日われわれが危機に直面しているのは現代文明の原理が持つ問題点が露呈したためであるとしている。
現代文明は、三つの原理をその内面に秘めている。
(1)自然を支配するのは善である。
(2)生産力をあげるのは善である。
(3)欲望を満たすのは善である。
(中略)しかし、今やこの文明は壁にぶち当たった。その文明のもつ三つの善が、少なくとも、この三つの善の絶対化がはっきり誤りであることがわかったからである。(現代文明の悔い改め)

そして、この危機から脱却するにはこの三つの原理を「根本否定」するほかないとする。
人間は、二つの原点にもどるべきである。一つは自然という原点である。(中略)人間同士ばかりではなく、人間と他の生物が共になかよくやってゆく共存の思想を、人間中心主義のヒューマニズムの思想にとって代わらしめなければならない。(中略)もう一つは、文明は、欲望を越えた何らかの精神的目的をもたねばならないということである。(無明の長夜)

しかし、その実現について梅原は悲観的だ。
私は、もう人類の深い内的悔い改めしか、人類の再生はないように思うのであるが、人類に内的悔い改めが起こるのは、もう人類がどうにもならない状況に追いこまれてからのような気がする。(中略)私は、当分、福音の説法者として生きつつ、私の頭の中で、新しい文明の原理を先取りしてゆかねばならないようである。

梅原は「この破綻をのがれる明瞭な理論的解決をもち合わせていない」ことに歯噛みしながらも、せめて自分だけは現代文明の「根本否定」をなしとげ、著作や講演、そして近年の「授業」を通じて一挙にではなく少しづつ世界を変えようとしているのだと思う。

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2008.06.25

高浜虚子『六百句』を読む

6月5日。引続き『日本の詩歌』第3巻(中公文庫、1975)から『六百句』(抄録86句)を読む。『六百句』も『五百句』や『五百五十句』と同様に俳誌『ホトトギス』六百号を記念したものだ。昭和22年刊行、昭和16~20年の作品を収録している。

この頃の句は一転して原点回帰、写生の冴えを感じさせるものが多い。

帯結ぶ肘にさはりて秋簾(昭和16)
大根を洗う手に水従へり(昭和16)
木の股の抱ける暗さや秋の風(昭和17)
初夢の唯空白を存したり(昭和18)
枯れ蓮の水を犬飲むおびえつゝ(昭和18)
枯菊に尚色といふもの存す(昭和20)

もちろん独特の感性がもたらす超現実主義的な感じを帯びた句(「木の股の」・「初夢の」)や老境を象徴するような句(「枯れ蓮の」・「枯れ菊に」)が姿を消してしまったわけではないが、叙情側に傾きかけたバランスが客観写生側に戻ってきた感じがする。
犬ふぐり星のまたゝく如くなり(昭和19)
牛の子の大きな顔や草の花(昭和19)
夏草に延びてからまる牛の舌(昭和20)

この頃の句のもう一つの特徴は野や牧の草花のような小さな生命に向けられた温かみのある視線だ。写生への回帰も含めこうした変化は戦争という時代背景と無関係ではないように思われる。
黎明を思ひ軒端の秋簾見る(昭和20)

添書きに「二十二日。在小諸。詔勅を拝し奉りて。朝日新聞の需めに応じて。」とある。加藤楸邨の解説によると、この句に加え「秋蝉も泣き簔虫も泣くのみぞ」、「敵といふもの今は無し秋の月」の計3句が、「需めに応じて」詠まれたそうだ。「秋蝉も」の句には敗戦の衝撃を受け止めかねている様子が伺える。「敵といふもの」の句も口当りは良いが思考は停止してているように感じられる。「黎明を」の句に至ってようやく覚悟が固まったのではないかと思われるのだ。

最後にもう1句引いておこう。

風邪引に又夕方の来たりけり(昭和18)

風邪引きで寝込んだだけでも日暮れ時は心細く感じられるものだ。まして3ヶ月も入院していた義母はどれほど寂しく頼りなく思っていただろうか。
手向けしは螺髪の如き花あじさい 矮猫

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2008.06.20

高浜虚子『五百五十句』を読む

6月4日。高浜虚子の『五百五十句』を読む。もっとも例によって『日本の詩歌』第3巻(中公文庫、1975)に抄録された95句のみである。『五百五十句』は昭和18年に俳誌『ホトトギス』の550号を記念して刊行されたもので虚子が昭和11年から15年までの5年間に読んだ句が収録されている。

この頃の虚子の句は自ら標榜していた写生と花鳥風詠の枠を大きく踏み越えていたように思われる。

秋の風衣と膚吹き分つ(昭11)
濁り鮒腹をかへして沈みけり(昭11)
鉄板を踏めば叫ぶや冬の溝(昭12)

例えば、これらの句は虚子の観察眼が冴え渡り、誰もが見過ごしてしまいそうな一瞬を的確に切り出している。確かにそれは写生の極地ではあるが、長年の写生が育んだ虚子の鋭い感性が余人の感じ得ない、理解し得ない領域に踏み出しつつあるかのように思われるのだ。
我が息を吹きとゞめたる野分かな(昭11)
旗のごとなびく冬日をふと見たり(昭13)
病にも色あらば黄や春の風邪(昭13)
もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭(昭13)
初蝶を夢の如くに見失ふ(昭14)
大寒の埃の如く人死ぬる(昭15)

これらの句ではそうした傾向が著しい。虚子の独特な感性から生まれる直喩・隠喩はもはや写生の領域を越え超現実主義的な雰囲気を作品に与えている。

またこの頃の句には老境の感慨、心境を映した主情的な句も多い。当時、虚子はまだ60歳代前半ではあったが、その頃の平均寿命が40代後半であったことを考えれば、そうした心境に達することに不自然さはない。だが写生・花鳥諷詠を踏み越えたという意味では特筆すべきものがあると思われる。

羽ひらきたるまゝ流れ寒鴉(昭12)
焚火かなし消えんとすれば育てられ(昭13)
打水をよろめきよけて病犬(昭14)
月も亦とゞむるすべも無かりけり(昭14)
高々と枯れ了せたる芒かな(昭14)
廻らぬは魂ぬけし風車(昭15)

これらの句では虚子の心情が風物に仮託され象徴的に表現されていると思われる。さらにはより叙情的に、老いの心境を直接に詠み込んだ句も少なくない。
枯荻に添ひ立てば我幽なり(昭11)
秋風や心の中の幾山河(昭13)
虫螻蛄と侮られつゝ生を享く(昭14)
秋風や相逢はざるも亦よろし(昭15)
我が生は淋しからずや日記買ふ(昭15)

加藤楸邨の解説によると、虚子はこうした事情について以下のように記していたそうだ。
写生主義と自分の胸奥の熱情との距離がだんだん近づいて来て、いつしか両者が合致して一にして二ならざるものになってしまう、必ずその境遇に達するものであります(「写生主義」、1929)

最後に気に入った句をもう少し引いておこう。
熱帯の海は日を呑み終りたる(昭11)
花の如く月の如くにもてなさん(昭12)
鵜の森のあはれにも亦騒がしく(昭13)
泣きじゃくりして髪洗ふ娘かな(昭13)
焚火そだてながら心は人を追う(昭13)
淋しさの故に清水に名をもつけ(昭14)
手鞠唄かなしきことをうつくしく(昭14)

昭和11年。虚子は箱根丸で海路、欧州に赴いた。「熱帯の海は」はその途中、紅海で詠まれた句。海外、殊に気候の大きく異なる熱帯での句詠は、無季詠を認めない伝統俳句の立場に立つ虚子に季題をどうするのかという課題を突きつけたはずだ。虚子は熱帯独特の風物を「熱帯季題」とすることでこの課題に対処した。一見、安易なようにも思えるが、それはそれで花鳥諷詠を貫く現実的な対処法であったといえよう。

「花の如く」は挨拶の文芸という伝統俳句の一つの側面を良くあらわしている。「泣きじゃくりして」は花鳥を詠むように人の営みを詠む虚子らしい句。「手毬歌」もそういった立場から手毬歌を虚心に観察することで得られた感想であろう。なんともいえない切なさが漂い印象的な句だ。

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2008.06.18

池田満寿夫の『般若心経』を観る

6月1日。週末恒例のランニングから帰宅後、軽いストレッチを済ませ、膝を冷やしながら、池田満寿夫の作品集『般若心経―池田満寿夫の造形』(同朋舎出版、1995)を観た。官能的な作風で知られる池田が晩年に取組んだ、般若心経をテーマとした作品を集めたものだ。先月11日に放映されたNHKの新日曜美術館でその存在を知り、さっそく市立図書館で借りてきた。

池田の心経シリーズはその殆どが陶芸作品である。小さな陶片に般若心経を一文字ずつ刻した「心経陶片」、野山の石仏の面影を宿した「地蔵」(仏像)、シルクロードの遺跡を思わせるような「佛塔」、そしてシリーズの最後を画家の本領で飾った「佛画陶板」。池田は59歳からの2年間に1000余りの作品を作成し、そのおよそ2年後にこの世を去った。

『般若心経―池田満寿夫の造形』にはそれらの多くの作品の写真が収録されているの加え、池田の般若心経をめぐる言葉がいくつか添えられている。なかでも心に残ったのが次の言葉だ。

物というのはあったって、それを見る者がいなければ、ないと同じ。物があっても、それを認める心がなければ、ないと同じじゃないか。物も心もないところには何の悩みもない。すべては空だということ。これは、仏教で見つけた、非常にユニークで素晴らしい認識だと思います。

モノ作りの人がモノを作りながらこのような認識に至ったということが非常に興味深い。また池田は巻末に納められたエッセイで「私にとって宗教とはある意味では発見だ」とも言っている。
なぜか佛の顔をとってみても、日本的な顔にならなく、インドやジャワあたりの古佛に似て来たのに、自分でも驚いているのである。……中略……私のなかに古代原始の造形を再現しようとした意図があったことは確かだが、砂漠や遺跡のなかから発掘されたイメージが濃厚だったからかもしれない。私にとって宗教とはある意味では発見だからだ。

これらの言葉を併せ読むとき、般若心経シリーズは池田の写経修行、作仏修行だったのではないか、とボクには思われた。池田は作品作りを通じて般若心経を学び理解したと考えたのだ。炎の力を借りるがゆえに偶然性に依拠するところが大きく、また金属や石に比べ壊れやすい陶芸は、池田にとって無と空とを理解するのにうってつけの素材であったであろう。

般若心経シリーズは散逸することなく全作品が三重のパラミタミュージアムに展示されているそうだ。ある実業家が全ての作品を買い取り、この美術館を運営する財団に寄付したらしい。それは一種の布施行とも考えられる。ボクもその功徳にあやかって、この作品を目の当たりに見てみたいものだ。

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2008.06.11

井上雄彦『バガボンド』28巻を読む

5月25日。井上雄彦の『バガボンド』28巻(吉川英治・原作、講談社)を読む。前巻で吉岡一門との一乗寺下り松の戦いを生き抜いた武蔵はひたすら眠っている。命をやりとりするような戦いに明け暮れた武蔵のひとときの休息。おつうや沢庵、又八、城太郎といった懐かしい顔に囲まれた静寂の時だ。しかし、その静けさの中で物語りは激しく動いている。武蔵を襲う悪夢の数々。そして目覚めたときに突きつけられた残酷な現実。武蔵はこの現実を乗り越え、さらに修羅の道を歩むのか。沢庵の必死の諭しも虚しく……。

本編はもちろんのこと、辻風黄平と佐々木小次郎が出会う巻頭のサイドストーリーも素晴らしい出来栄えである。

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2008.06.10

写真は未練だ

5月16日。荒木経惟の『すべての女は美しい』(だいわ文庫、2006)を読む。「イイ女」をめぐっていつものアラーキー節が炸裂した一冊だ。ことに「写真は未練だ」の一言にはグッときた。

写真ってのは未練だからね。未練がなかったら写真に残そうとは思わない。

いまここで向き合っている人の、この一瞬に見せた表情をいつまでも目に焼き付けておきたい。荒木の写真の根底にはそういった欲望、「未練」がこもっているのだろう。写真もまた一期一会の芸術なのであると思い知らされた一言だ。

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寺山修司『月蝕書簡』を読む

5月13日。寺山修司の未発表歌集『月蝕書簡』(田中未知編、岩波書店、2008)を読む。

面売りの面のなかより買い来たる笑いながらに燃やされにけり

巻頭歌である。この歌を含め、本書に収録された188首は、47歳でこの世を去った鬼才・寺山修司が未発表のままノートに遺したものだ。永年、秘書として寺山の活動を支えた作曲家の田中未知がこのノートを整理して歌集にまとめたのだそうだ。

詩や批評、随筆、演劇、映画など幅広いジャンルで活躍した寺山の創作活動の原点は俳句と短歌であった。10代で歌人としてデビュー、その後10年間の間に3冊の歌集を出版したが(『空には本を』『血と麦』『田園に死す』)、その後はしだいに歌を詠まなくなり、1971年、寺山はついに『寺山修司全歌集』の刊行をもって歌作に「終止符」を打った。

こうして私はまだ未練のある私の表現手段の一つに終止符を打ち、「全歌集」を出すことになったが、実際は、生きているうちに、一つ位は自分の墓を立ててみたかったというのが、本音である。(『寺山修司全歌集』跋文より)

30代後半になって寺山が再び歌を書き始め、しかし発表には至らずに終わった経緯は、本書に収められた田中の「『月蝕書簡』をめぐる経緯」に詳しい。かいつまんで言えば人に薦められて書いてはみたものの発表するだけの自信が持てなかったということのようだ。これではなんだか情けない話に聞こえるが、むしろ寺山の自分自身に対する要求水準の高さに思い至るべきだろう。例えば田中は辺見じゅんとの対談から寺山のこんな発言を引用している。
自分の過去を自分自身が模倣して、技術的に逃げ込むわけでね、……中略……自分自身の何か新しいことを語る語り口として、二十年ぶりで短歌を作るということに値するかどうか(『現代詩手帖』1981年9月号より)

本書の解説で佐々木幸綱は、この歌集は「既視感のある寺山ボキャブラリーにおおわれている」と記している。それは期待通りの「まぎれもなく寺山修司だという確かな手触り」とともに、どこかで見た記憶があるという失望、「期待が裏切られた印象」をもたらしたというのだ。寺山にはこのような周囲の期待のあり方が分かっていたのだろう。寺山でありつつ寺山を超える新機軸を打ち出す、それは周囲以上に寺山自身が求めていたことでもあったはずだ。

188首から気に入った歌をノートに抜書きしてみたところ40首にも及んでしまった。さらに厳選して何首か引いておこうと思ったが、どれもこれも捨てがたい。先ずはいかにも寺山らしいところを5首選んでみた。

出奔後もまわれ吃りの蓄音機誰か故郷を想わ想わ想わ
満月に墓石はこぶ男来て肩の肉より消えて
義母義兄義姉義弟があつまりて花野に穴を掘りはじめたり
起重機に吊りあげらるる一塊の土の中なる義母人形や
パイロットひとりひそかに発狂し月明をとぶ旅客機もあれ

佐々木が解説で述べた「寺山短歌の大きな魅力」である「演歌的物語あるいは童心の物語等をいったん深く抱き込んで、シュールな色合いに染める手ぎわ」のよさが余すところなく発揮されているように感じられる。

こうした寺山の方法論は青春期の作品と何ら変わるところがない。しかし歌想という意味では年齢相応の変化が感じられる。

レコードに疵ありしかばくりかえす「鳥はとびつつ老いてゆくのみ」
ふしあわせという名の猫を飼いころすわが影の外へ出さず
父親になれざりしかば曇日の書斎に犀を幻想するなり
木のままで一生終るほかはなし花ざかりの墓地首吊りの松
地の果てに燃ゆる竈をたずねつつ父ともなれぬわが冬の旅

これらの歌には、老いの気配を感受し、過ぎこし方を顧みているような風情が顕著である。こうした歌想の変化を熟成であるとか円熟であるとかといった曖昧な言葉で賞賛することができれば話は簡単なのだが、なにしろ相手は寺山である。そうはいかないところに佐々木の失望感あるいは寺山自身の苦悩があったのではないか。最後にもう1首。
一本の釘を書物に打ちこみし三十一音黙示録

この歌からはある想像が浮かび上がってくる。寺山は従来の寺山短歌を越える何ものかを世に示し、その上で再び短歌という表現方法を自分のなかから葬り去ろうとしていたのではないか、そんな気がしてならないのだ。そして、そのことが惜しくも果たされなかったために、ボクらはこれまで寺山の晩年の短歌を眼にすることができなかったのだろう。単なる想像に過ぎないが、しかし、なんという逆説だろうか。だがそれもまた寺山らしいという気がする。

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2008.06.03

GWを振り返る

5月6日。早いもので11連休に及んだ超大型連休も今日でおしまい。振り返ってみると「お出かけ」が5回にランニングが3本と、3月末に義母を亡くしたばかりで余り華やかなことはなかったものの、それなりに充実していたように思われる。

4/29は狭山の山口観音に参詣。義母の最後を看取ったときボクは山口観音のお守りを握りしめ延命十句観音経を心の中で念じ続けていた。義母が安らかに息を引き取ったのは観音さまのご加護があってのことと思う。そこで妻と二人、観音さまに御礼を申し上げるとともに、義母の冥土への旅を見守って下さるようお願いしてきたのだ。また弘法大師の御影を頂き、翌30日、初月忌(最初の月命日)を迎えた義母の中陰壇に果物と共にお供えした。翌1日は義父も誘って三人で下落合の薬王院へ。3日は妻の実家で食事会。

そして最終日の今日は妻と息子と三人で上野の鈴本演芸場を訪ねた。口開けは来年3月に二代目三平を襲名する林家いっ平、トリは一昨年、大名跡を継いだ正蔵と、何かと話題の絶えない兄弟二人を迎え、立ち見も出る盛況ぶりだった。正蔵は「お菊の皿」を演じたが、現代風に味付けされておりながら過度に浮ついたところがなく、なかなかしっかりとした出来栄えだった。もう名実共に「こぶちゃん」ではないようだ。他にも大好きな柳家喜多八(「小言念仏」)や三遊亭小円歌(三味線漫談)をライブで見られご機嫌であった。

ランニングは4/26、4/30、5/5と3~4日おきに11キロずつ走った。自宅から八国山を越えて多摩湖までの道を往復するいつものコースだ。1月にランニングを再開以来、徐々にペースを上げ、ようやく57分台前半まで辿りついたが、このコースの自己ベストにはまだまだ2分ほど届かない。せめてあと1分、入梅までにタイムを削っておきたいところだ。

「お出かけ」とランニング以外に何をしていたかというと庭仕事と読書くらいなものだ。庭仕事は主に草むしりと掃除。昨年の秋に腰を痛めてからは庭の手入れもさぼりがちで、すっかり荒れ果てた庭に謝るようにして一本一本、雑草を抜いていった。読書のほうもマンガばかりだったが、友人に薦められて読んだ石塚真一の『岳』(1~6巻)が余りにも素晴らしくて何度も繰返し読んでしまったほどだ。作者の山への熱い想い、山に登らずにはいられない人々への深い愛情、そしてそこで命を落とすまで戦い抜いた人々への尊崇な敬意がずっしりと伝わってくる作品だ。この作品に出会えたこともGWの大きな収穫である。あとは待ちに待った『頭文字D』の最新刊・37巻。こちらは例によって例のごとくなのだが、ボクはそれが好きなのだから、それでいい。

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2008.04.22

高浜虚子『五百句』を読む

4月9日。高浜虚子の句集『五百句』を読む。俳誌『ホトトギス』500号刊行を記念して発行されたもので、虚子が17歳にして句作を始めた明治24年(1891年)から昭和10年(1935年)までの作品を対象に500作を選出したものだ。もっともボクが読んだのは『日本の詩歌』第3巻(中公文庫、1975)に収録された100余句ほどである。

2月末に入院した義母の容態が3月半ばから著しく悪化し、それからはどうも難しい本を読んだり考えたりする気力が湧かず、せっかく買った吉本隆明の『日本語のゆくえ』もページを開く気にすらなれなかった。そんなある日、ふと、本棚に収められていたこの本に目が留まり、今の自分の読み物としては俳句や短歌がうってつけなのではと思い、とりあえず虚子の作品を読んでみることにしたのだ。

虚子は正岡子規や河東碧梧桐と並ぶ近代俳壇の巨人。俳誌『ホトトギス』を主宰し飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男などを輩出したことでも知られる。伝統に根ざした古典的な作風で碧梧桐に代表される革新派の俳人とと激しく対立した。『五百句』から気に入った作品を幾つか引いておこう。

遠山に日の当りたる枯野かな 明治33

虚子の代表作として名高い句だ。「客観写生」を旨とした虚子だが初期の作品はむしろ主情的で、当時、師の正岡子規も「虚子は熱きこと火のごとし」と評したそうだ。そんな虚子の作風が一変したのがこの句の頃からで、確かな観察に支えられた風景描写が前面に押し出され、叙情はほのかに香る程度に抑制されている。
桐一葉日当りながら落ちにけり 明治38
露の幹静に蝉の歩き居り 大正5
白牡丹といふといへども紅ほのか 大正14
流れ行く大根の葉の早さかな 昭和3
蕗の薹の舌を逃げゆくにがさかな 昭和6

これらの句には虚子の観察眼の鋭さが遺憾なく発揮されている。いや、眼ばかりではない。耳も鼻も舌も皮膚も五感の全てを研ぎ澄ませて対象に迫っていると感じられてならない。
夕鯵を妻が値切りて瓜の花 大正9
父母の夜長くおはし給ふらん 大正14
やり羽子や油のやうな京言葉 昭和2
蜘蛛打つて暫心静まらず 昭和5
春の浜大いなる輪が画いてある 昭和7
浴衣着て少女の乳房高からず 昭和8

虚子は晩年、俳句の目的は「花鳥諷詠」であると語ったが、これらの句を読むと花鳥風月を観察し諷詠するのと同じ視線が人にも向けられていたことが分かる。中には主情的と映る句もあるが、それらもやはり自分自身の心を客観的に見据えた上での諷詠であると受けとりたい。
春水や矗々として菖蒲の芽 大正6
どかと解く夏帯に句を書けとこそ 大正9
底の石ほと動き湧く清水かな 大正14
ほつかりと梢に日あり霜の朝 昭和5
かわ(かわ)と大きくゆるく寒鴉 昭和10
※括弧内は原本では繰返し記号(大返し、くの字点)

初めて虚子の句をまとめて読んで気付いたことはオノマトペの豊富さ、ユニークさである。これもやはり虚心に対象を見つめることで得られる感覚を素直にそのまま詠んだものであろう。
大いなるものが過ぎ行く野分かな 昭和9

この句を読むと、虚子の観察眼はついに眼に見えないものを見、身体では感じられないものをも感じるに至ったと思われる。

ボクにとって「大いなるもの」が去ったのは3月30日のことだ。その日、ついに義母は息を引き取った。春の嵐と言うには大げさかもしれないが雨の激しく降る午後だった。

その日(その日)死ぬる此身と蒲団かな 大正2
※括弧内は原本では繰返し記号(大返し、くの字点)

病床で義母もそのような思いを抱いただろうか。そう思うと改めて切なさがこみ上げてくる。

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2008.04.09

『戦後詩史論』を読む

3月7日、吉本隆明の『戦後詩史論 』を読む。2005年に復刊されたもの(思潮社版)ではなく、以前、古本屋で買い求めた大和書房版(1978年刊行)だ。

この本には「戦後詩史論」、「戦後詩の体験」、「修辞的な現在」の3つの論考が収められている。

「戦後詩史論」は1959年から60年にかけて刊行された『現代詩全集』(ユリイカ版)に分載されたもので、戦後詩の源流をなした昭和初期の詩人たちをはじめ、戦時体制の確立に向かう社会変動の中で台頭した過渡的詩人たち、敗戦の経験に立脚した「荒地」や「列島」の詩人たち、そして50年代後半に登場した戦争の痕跡を持たない詩人たちを主に取り上げ、その思想と社会的背景、方法論や言語表現の特徴について分析している。概ね時間軸に沿った展開となっており現代詩誕生期の通史として読むこともできる。

「戦後詩の体験」は70年代に行われた講演の記録をもとに書下ろされたもので、戦後詩がどのように戦争体験をふまえてきたのかを思想史的な観点から取り扱っている。ここで主に取り上げられているのは「荒地」に代表される戦時中に青春期を過ごした詩人たちだ。彼らは「戦乱によって日常の自然感性を根こそぎ疑うことを強いられ」たため、敗戦の体験を出発点とした思想性の高い作品を創作する一方、その後の平穏な時代にあっても、その日常性への違和感との格闘を余儀なくされた。彼らの戦後とは対照的に、続いて登場した「自覚的な生活過程に戦争の影が無かった」世代にとっては同じ平穏な時代が「もう日常性しかない」時代として捉えられている。そこでは「自己体験を深めていくとか、それを思想化していく」といったことはあり得なくなってしまい、「<もの>そのものになってしまうより生きざまもなければ倫理もない」といった「現在の感性」に立脚した詩が書かれることとなった。

同じく書下ろしの「修辞的な現在」で取り上げられているのは、この「自覚的な生活過程に戦争の影が無かった」世代、「戦後詩の体験の終結」以降に登場した詩人たちだ。「生活の現実の場それ自体に<意味>をうしなった」彼らには「修辞的なこだわり」しか残されておらず、「切実さの中心から等距離に隔たった」多様な修辞のバリエーションを繰り広げるほかなかった。一方、彼らは古典的な感性とも相通じる大衆的な風俗、ことにフォークソングに代表される新しい歌謡との対峙を強いられる。この戦線においても彼らには「修辞的なこだわり」のほかに闘う術を持たなかったのだ。

現在、詩は様式的にある飽和点にしゃにむに駈せのぼり、変質し横溢しようとしている時期におもわれる

「荒地」に代表される世代の詩人たちを支えた、言葉で「じかに、現実を引掻いている感覚」から解放された彼らが、60~70年代に作り出した詩の潮流は80年代、90年代を貫き、今なお現代詩の底流をなしている思われる。この言わば「修辞的な現在」のなれの果てを吉本は新刊『日本語のゆくえ』で「いまの若い人たちの詩は『無』だ」と断じていると言う。大いに興味はあるものの未だ買ったきりで読んではいない。なんとなく読むのが怖い気がしているのだ。

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2008.02.28

『父の終焉日記・おらが春 他一篇』を読む

2月6日、小林一茶の『父の終焉日記・おらが春 他一篇』(校註・矢羽勝幸、岩波文庫)を読む。江戸時代の俳人と言えば芭蕉、蕪村と並んで一茶が思い浮かぶ。そして一茶の代表作と言えば「おらが春」であるが、実はこれまで読んだことがなかった。

「おらが春」は今で言うエッセイのような散文と自作の俳句を中心に編まれた句文集である。文政2年(1819、一茶57歳)の一年間に書かれた日記の体裁をとっているが、実際は出版を前提に書かれたもので、構成にも工夫が凝らされており、脚色も少なくないそうだ。「おらが春」の他には「父の終焉日記」と「我春集」が収められている。「父の終焉日記」は父の発病から死、初七日を迎えるまでの約1ヶ月を描いたもので、こちらもやはり日記体が採用されているが、俳句は少なく今日の私小説に近い。「我春集」は文化8年(1811、一茶49歳)に書かれた連句や俳句、俳文をまとめたもので、「おらが春」に代表される一年単位の日記体句文集という一茶独自のスタイルを確立した作品とされる。

「おらが春」から印象に残った句を幾つか引いておく。まずは

目出度さもちう位也おらが春

正月にちなんだ普甲寺上人の逸話と共に巻頭を飾る一句である。浄土真宗の教えに従い松飾りも施さずに迎える正月は普段とさほど変わらないという句意のようだ。一方、巻末には
ともかくもあなた任せの年の暮

という句が配されている。こちらも他力信仰の境地を詠んだもので明らかに巻頭の句との呼応が見て取れる。一茶は「おらが春」を編むにあたって、浄土信仰・阿弥陀信仰の心的境地を主題に選び、その主題に相応しい構成を工夫したものと思われる。
這え笑え二つになるぞけさからは

「目出度さも……」に続く二句目には年老いてから得た幼娘・さとへの愛情を詠ったこの句が採用されている。この年の夏、一茶はさとを急な病いで喪っており、その愛惜の想いが「おらが春」のもう一つの主題となっている。国語教育の現場では「おらが春」の主題は亡娘への慟哭であるとされ、むしろそうした理解のほうが一般的であろう。しかし構成面から見ると、それは副次的な主題として扱われているように思われる。もちろん一茶にとって娘の死は大事件ではあるが、「おらが春」の一茶は悲嘆にくれたままこの年を終えるわけではない。「おらが春」は念仏者として信仰の力によりその悲しみから救済された者の記録として書かれているのだろう。少なくとも表向きの建前としては……。

さて、そうした主題意識のもとに取りまとめられた「おらが春」には子どもの愛らしさや親子の愛情を描いた句が多い。気に入った句をいくつか拾っておく。

あついとてつらで手習した子哉
柳からもゝんぐあゝあと出る子哉
蓬莱になんむ(なんむ)といふ子哉
年問へば片手出す子や更衣
たのもしやてんつるてんの初袷
子宝がきやら(きやら)笑う榾火哉
あこが餅(あこが餅)とて並べけり
秋風やむしりたがりし赤い花
※括弧内は原本では繰返し記号(大返し、くの字点)

「秋風や……」はさとの死の約一ヵ月後、墓参の折に詠まれたものだ。静かな佇まいの句だが、そのために却って哀惜の念がしみじみと伝わってくる。
露の世は露の世ながらさりながら

一方、さとの死の直後に詠まれたこちらの句は絶唱と言っていいだろう。世の無常を知り尽くしたはずの仏教者にあっても耐えがたい、強く激しい悲しみが感じられる。

ところで一茶と聞くとまず思い浮かぶのは痩せ蛙や雀など小さな生き物たちを詠んだ句である。

犬猫の尻尾でなぶる小蝶哉
竹の子と品よく遊べ雀の子
世がよくばも一つ止まれ飯の蠅
魚どもや桶ともしらで門涼み
なでしこに二文が水を浴びせけり
蟻の道雲の峰よりつゞきけん

いずれも生命そのものを慈しむような優しさにあふれた句だ。やや異色なのが「蟻の道……」の一句。極小の生き物をとらえたクローズアップの視線が一直線に広大な天空へと向かう。そのスケールの大きなフレームの転換が心地よい。どんな小さな生き物であっても、その命は宇宙全体につながる大きなものなのだと、一茶は言っているのだろうか。
我と来て遊べや親のない雀 六才弥太郎

「弥太郎」は一茶の幼名。継母に虐げられていた幼少時の作というわけだ。もっとも実際には長じてから回顧的に詠まれたものらしい。一茶は継母からよほどひどい仕打ちを受けていたらしく、「おらが春」にも幼少時のつらい思い出が綴られ第三の主題となっている。もっともこちらも副次的な主題であり、第二の主題である愛娘への愛情、哀惜をより引き立てる役割を負っている。
灰猫のやうな柳もお花かな
かくれ家や猫にもすゑる二日灸
猫の子や秤にかゝりつゝじやれる

矮猫亭にちなんで猫に関する句を拾ってみた。先に挙げた「犬猫の……」を含め四句、いずれも春らしいほのぼのとした句だ。
思うまじ見まじとすれど我家哉
影法師に恥よ夜寒の無駄歩き
能なしは罪も又なし冬籠
喧嘩すなあひみたがひの渡り鳥
※「嘩」は原本では口へんに花

気に入った句を挙げてゆくとキリがないが最後に矮猫亭らしく酒に関する句を一つ引いて締めくくりとしよう。
下戸庵が疵也こんな月

門人・佐藤信胤の開いた菊見の会での句。こんなに月のきれいな夜だというのに庵主が酒をたしなまない。何もかも素晴らしいのだが、それだけが玉に疵。穏やかなユーモアと共に、門人のもてなしに対する感謝の気持ちが表れている。

ところでボクの場合は大酒呑みが疵也? いやいや、たまにも褒められない疵だらけ、というところか……。

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2008.01.22

『わが屍は野に捨てよ』を読む

1月15日。佐江衆一の『わが屍は野に捨てよ:一遍遊行』(新潮文庫)を読む。盆踊りの起源ともされる踊り念仏を全国に広めた、時宗の祖師、一遍上人の賦算遊行の人生を描いたものだ。玄侑宗久の解説にも記されている通り、この作品は圧倒的な迫力をもって一遍の波乱に満ちた生涯を追体験させてくれる。そのため一遍の教義、思想を、そのよってきたる一遍の生立ちや社会的な背景と重ね合わせながら理解することができる。法然や親鸞といった同じ浄土門の祖師たちや日蓮の動向にも触れており、当時の一大ムーブメントであった鎌倉新仏教全体の雰囲気が感じられるところもよかった。また、以前、読んだ柳宗悦の『南無阿弥陀仏』が一遍の思想の多大な影響の下に書かれたものであることを改めて認識させられた。

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2008.01.17

『禅的生活』を読む

1月7日。玄侑宗久の『禅的生活』(ちくま新書)を読む。

本書は、作家であると同時に臨済宗の禅僧でもある玄侑が禅の世界観を紹介し、禅の考え方・感じ方を日常生活に生かしてゆく術を説いたものだ。といっても本格的な教学を語るものではなく、犬のナムと猫のタマを登場させたり、脳科学の最近の知見に触れたり、ボクのような余り禅に馴染みのない者にも親しみやすいよう、随所に工夫がこらされている。それでいて著名な禅語がふんだんに盛り込まれているので臨済宗の入門書としても役立ちそうだ。

本書は禅の悟りを語りながら説教じみていないところがよい。玄侑は、既に悟りを開いた先達として上からの目線で語るのではなく、読者の横にそっと肩をならべるようにして語っている。また巻末には禅語の索引が用意されており、原典も示されていて便利そうだ。こうした細やかな心遣いが初学者にとってはありがたい。

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2007.12.10

『四元康祐詩集』を読む

12月6日。『四元康祐詩集』(現代詩文庫、思潮社)を読む。この詩集は絶版から久しい処女詩集『笑うバグ』の全作品が収録されている。それだけでもファンにとっては貴重な一冊だが、加えて10年後の再デビュー作(?)『世界中年会議』(思潮社)、その後の華々しい活躍を飾った『噤みの午後』(思潮社)ならびに『ゴールデンアワー』(新潮社)の3つの詩集から選ばれた計34作品が収録されている。

これらの作品をまとめて読んでみると、その詩題の多彩さに驚かされる。子育てや会社生活といった日常的なものから、中原中也やダンテ、キーツといった詩人たち、また、これまで詩に取上げられることのなかった金融理論やマンガ、アニメといったものまで。四元の手にかかれば詩にならないものはないといった感さえある。四元は、その豊かな想像力と巧みな比喩力によって詩の領域を拡大しつつあるのだと思う。

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