2011.07.08

パウル・クレー展「おわらないアトリエ」を観る

パウル・クレー展「おわらないアトリエ」(東京国立近代美術館、5/31~7/31)を観る。クレーの作品に漂う独特の静けさ、穏やかさ、軽やかさ、そして時に見せる子供のように素直な遊び心と老職人のように手管に満ちた諧謔。ボクはずっとクレーに惹かれてきたけれど、こうして間近に対面してみると、その繊細な筆づかいや精密な線に改めて驚かされる。豊かな詩情を支えるのは確かな技量であるという当たり前の事実を思い知るのだ。

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2011.04.13

大泉が喰え

食べ盛りなんだから、遠慮すんな。

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2008.11.05

矮猫亭・2008年8月

8月以来ほとんど何も書けない日々が続いている。暴力的なほど目まぐるしく過ぎる時を前に呆然と立ちすくんでいる。そんな感じだ。いったい出口はどこにあるのだろう。まずは手帖を頼りに迷路のような日々を思い返すことから始めてみようか。



1日。松本圭二の詩集『アストロノート』(「重力」編集会議、2006)を読む。あっぱれ帝王氏から「ブログでつくる詩人名鑑」にリクエストを頂き早速ネタを仕込むために読んだのだが……その余りにも(ボクにとっては)衝撃的な「あとがき」に言葉を失う。いずれリベンジをと誓いながらページを閉じる他なかった。

2日。所沢整形を訪ねる。先日から右ひざの内側が痛くて思うように走れない。やむなくトレーニングを休み受診することにした。診断は変形性膝関節症いわゆるOAだ。昨シーズンは腰痛でフルマラソン初挑戦をふいにしたが、今度は膝に妨げられるのか?

3日。ランニングはしばしお預け。かといって家にこもっているのも気詰まりだと久しぶりに庭の手入れをすることに。芝を刈りチャボヒバの剪定を行なう。だが、しゃがむたびに膝が痛み、これでは却って走るよりも膝痛を悪化させてしまいそうだ。

7日。夏休み初日。久しぶりに妻と二人で出かける。池袋の街を散策しハゲ天で昼食。映画でも観ようかと思ったが、これといって観たい作品もなく、結局ビックカメラで買い物して帰ることに。それでも少しはデート気分(?)。

9日。一昨日のデートもどきがたたったか、あるいは昨日の五輪開会式にあてられたか、妻は偏頭痛でダウン。日ごろの罪滅ぼしとばかり洗濯をしたり買い物に行ったり家事にいそしむ。夕飯は息子のリクエストにより餃子。「ギョウザの満州」で生餃子を山ほど買い家で焼いた。その頃には妻の頭痛も治まり、一転、餃子パーティの趣き。

10日。せっかくの夏休み、一日くらいは家族全員で出かけようと浅草へ行く。お目当ては浅草演芸ホール。笑点でおなじみの春風亭昇太が「ちりとてちん」を熱演し圧巻。また桂米丸の「風呂屋は楽し」もほのぼのと更に懐かしさも相まって文字通り楽しい作品だ。最後は三遊亭小遊三の率いるディキシーランド・ジャズ・バンド「にゅうおいらんず」の迷演奏。

順番が前後し、ついで参りのようになってしまったが浅草寺にも立ち寄った。もちろん、これまでも幾度か参詣したことはあるが、これほどゆっくり寺内をめぐったことは初めてだ。帰りは巣鴨に寄り韓国館で食事。本当は別の店に入いるつもりで巣鴨までわざわざ足を運んだのだが生憎の満席。そこで止むなく初めての店に飛び込んでみたのだが、リーゾナブルな値段で美味しい肉をたっぷり頂くことができ大満足。

14日。7日から6連休の夏休み明け2日目。昨日も慣らし運転に留まったが今日もなかなかエンジンがかからず、けっきょく早めに帰ることにした。ビールもどきで晩酌を楽しんでいたところ、9時からテレビで『キサラギ』(日本、2007)という映画があると、妻。気になりながら見損ねていた映画だから是非と言う。取敢えず付合ってみるかと余り期待もせずに観てみたが、これがなかなかの快作。笑いありサスペンスあり心に火の灯るような仄かな温かみまで。脚本と演技、演出、映像がしっかりと組み合い独特の世界を作り上げている。

15日城平京の『小説スパイラル―推理の絆―ソードマスターの犯罪』(エニックス、2001)を読む。めったに読まない小説それもライトノベルである。高校生の息子に奨められて読んでみたのだが、まぁ、それなりに楽しませてもらった。

20日。山本勉の『仏像のひみつ』(朝日出版社、2006)を読む。もともと子供向けの企画展示を本にまとめただけあって平易で分かりやすく、それでいて大人にとっても興味深い内容である。また妻の死に触れた「あとがき」が切なく美しい。

30日。義母の五度目の月命日。義父と妻と三人で墓参。



ところで8月といえば北京オリンピックを抜きにしては語れない。壮大な開会式に始まった2週間、ボクも日本選手の活躍から目が離せなかった者の一人だ。なんともすさまじい求心力である。暴力的とさえ言えるだろう。猛暑にもゲリラ豪雨にも劣らないなほどの……。

さてテレビに釘付けにされた競技といえば、柔道、レスリング、卓球、水泳、マラソン、ハンマー投げ等々、数え上げればキリがない。中でもとりわけ印象深かったのが男子水泳400メートルメドレーと男子陸上の同じく400メートルリレーだ。個人競技が基本の水泳や陸上だが、そこに団体戦の面白さが加わったリレーには独特の魅力がある。ことに今季で引退が確実視されていた朝原宣治のゴールシーンは感動的だった。

塚原、末続、高平、そして朝原。日本の短距離走者を代表する彼らの走りを見ていたら無性に100メートルが走ってみたくなった。

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2008.06.18

池田満寿夫の『般若心経』を観る

6月1日。週末恒例のランニングから帰宅後、軽いストレッチを済ませ、膝を冷やしながら、池田満寿夫の作品集『般若心経―池田満寿夫の造形』(同朋舎出版、1995)を観た。官能的な作風で知られる池田が晩年に取組んだ、般若心経をテーマとした作品を集めたものだ。先月11日に放映されたNHKの新日曜美術館でその存在を知り、さっそく市立図書館で借りてきた。

池田の心経シリーズはその殆どが陶芸作品である。小さな陶片に般若心経を一文字ずつ刻した「心経陶片」、野山の石仏の面影を宿した「地蔵」(仏像)、シルクロードの遺跡を思わせるような「佛塔」、そしてシリーズの最後を画家の本領で飾った「佛画陶板」。池田は59歳からの2年間に1000余りの作品を作成し、そのおよそ2年後にこの世を去った。

『般若心経―池田満寿夫の造形』にはそれらの多くの作品の写真が収録されているの加え、池田の般若心経をめぐる言葉がいくつか添えられている。なかでも心に残ったのが次の言葉だ。

物というのはあったって、それを見る者がいなければ、ないと同じ。物があっても、それを認める心がなければ、ないと同じじゃないか。物も心もないところには何の悩みもない。すべては空だということ。これは、仏教で見つけた、非常にユニークで素晴らしい認識だと思います。

モノ作りの人がモノを作りながらこのような認識に至ったということが非常に興味深い。また池田は巻末に納められたエッセイで「私にとって宗教とはある意味では発見だ」とも言っている。
なぜか佛の顔をとってみても、日本的な顔にならなく、インドやジャワあたりの古佛に似て来たのに、自分でも驚いているのである。……中略……私のなかに古代原始の造形を再現しようとした意図があったことは確かだが、砂漠や遺跡のなかから発掘されたイメージが濃厚だったからかもしれない。私にとって宗教とはある意味では発見だからだ。

これらの言葉を併せ読むとき、般若心経シリーズは池田の写経修行、作仏修行だったのではないか、とボクには思われた。池田は作品作りを通じて般若心経を学び理解したと考えたのだ。炎の力を借りるがゆえに偶然性に依拠するところが大きく、また金属や石に比べ壊れやすい陶芸は、池田にとって無と空とを理解するのにうってつけの素材であったであろう。

般若心経シリーズは散逸することなく全作品が三重のパラミタミュージアムに展示されているそうだ。ある実業家が全ての作品を買い取り、この美術館を運営する財団に寄付したらしい。それは一種の布施行とも考えられる。ボクもその功徳にあやかって、この作品を目の当たりに見てみたいものだ。

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2008.06.10

写真は未練だ

5月16日。荒木経惟の『すべての女は美しい』(だいわ文庫、2006)を読む。「イイ女」をめぐっていつものアラーキー節が炸裂した一冊だ。ことに「写真は未練だ」の一言にはグッときた。

写真ってのは未練だからね。未練がなかったら写真に残そうとは思わない。

いまここで向き合っている人の、この一瞬に見せた表情をいつまでも目に焼き付けておきたい。荒木の写真の根底にはそういった欲望、「未練」がこもっているのだろう。写真もまた一期一会の芸術なのであると思い知らされた一言だ。

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2008.01.12

『六本木クロッシング2007』を観る

1月3日。せっかくの正月休み、家族でどこかへ遊びにいこうか、と切出したところ、息子が森美術館に行ってみたいと応えた。血は争えないとはよく言ったものだ。妻とボクも息子が生まれるまではよく美術館に出かけたが、その息子も昨春、高校生となり、近頃は美術に興味を持つようになってきた。特にシュールレアリスムやモダンアートがお気に入りらしい。折りしも日本のモダンアートの動向を紹介する『六本木クロッシング2007』が森美術館で開催されている。そんなわけで六本木に向かうことになった。

久しぶりの六本木はすっかり勝手が違ってしまいチョッと戸惑いを感じたが、ボクよりは流行に敏感な妻が六本木ヒルズへの道を案内してくれた。チケットを買い会場に入いると先ず目を引いたのが内原恭彦の巨大な写真作品。中東とも北アフリカとも思われる、見慣れない街並を撮ったものだが、なぜかその地の今をずばり切り取ってきたもののように感じられた。続いて吉野辰海の、これも巨大な異形の犬たち。素材はオーソドックスなブロンズだが、ねじり曲がったような独特の姿態が印象深い。順路に従って次の部屋に進むと今度は榎忠の「RPM-1200」が目に飛び込んできた。大量の磨きこんだ機械部品で構成されたこの作品を見ていると、あたかも未来都市を俯瞰しているような気にさせる。

といった具合で次から次へと多種多様な作品が繰り出されるが、中でも原真一、冨谷悦子、田中偉一郎の三氏の作品が気に入った。原の作品は、伝統的な素材である大理石からダリを思わせるような幻想的でエロティックな像を掘り出し、見る者に強い印象を与える。冨谷の作品は細密な銅版画だ。小さな画面を埋め尽くす細かな線を見ていると絵の中に吸い込まれそうな気がしてくる。ことに「己」と題された作品は、渾然と溶け合ったような動植物たちの中に佇む少女が神秘的でもあり官能的でもあり、強く惹かれるものがあった。田中の作品はなんと呼べばよいのだろう。40人もの名を連ねた「子づくり表札」やダルマの足許に黒眼を二つ書いた「目おちダルマ」、次々と映し出されるハトに一羽一羽それぞれ別の人名のテロップを重ねた「ハト命名」など、笑いを武器にアートの境界を軽々と踏み越えてしまうナンセンスが楽しい。また四谷シモンの人形を久しぶりに見られたのも嬉しかった。

美術館を出ると同じフロアーに展望台・東京シティビューがある。52階から見下ろす東京は種々雑多な要素が混在していて、いま見てきたばかりの展覧会のようだ。この街も、この街のアートを集めた展覧会も、多様な個性が溶け合い相互に影響しあうことで一つの独特な雰囲気を醸し出しているようだ。しかし、なんとなく浮ついた作り物もめいた感じ、なにか肝心なものが足りないような感じがするのはボクの気のせいだろうか。

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2007.11.02

仙崖の禅画を観る

10月27日。台風20号が関東方面に北上中の朝のこと。妻:だいぶ荒れそうだけど、どうする? ボク:明日にするかぁ。妻:今日だったらxx(息子、高校1年生)も留守だから気楽に出かけられるんだけどなぁ……。

というわけで雨風覚悟で出光美術館に向かった。お目当ては『没後170年記念 仙崖・センガイ・SENGAI―禅画に遊ぶ』展である。仙崖は江戸時代の禅僧で自由闊達な画風で知られる。ボクも名前くらいは聞いたことがあったが、先々週の「新・日曜美術館」で取上げられたのを観て、俄然、興味がわき、この週末に行ってみることにしていたのだ。

さて実際に観てみると、仙崖の作品は機知とユーモアに溢れた親しみやすいものが多く、声を上げて笑いそうになることもしばしばだった。例えば「虎図」と題した小品はどうみても猫にしか見えない絵に「猫に似たもの」との詩文が添えてある。「花見画賛」には描き損じた人物を墨で消して「書きそこない」と書き込んであった。古今東西、こんな画家は他にあるまい。まさに涯画無法。自分の絵は美人と違って笑われることを好む、と記しただけのことはある。

圧巻は「一円相画賛」だ。一円相とは禅画の画題の一つで、図形の丸を一筆で描いただけのものだ。一円相は禅の境地を示すのだそうだが、仙涯はその傍らに「これくふて/茶のめ」との詩文を添えた。もちろん円を饅頭に見立てたパロディだが、禅の境地などというものにこだわっているうちは、まだまだ悟りからはほど遠い、と言っているように感じられた。禅の境地、悟りの境地に至れば、融通無碍な心が得られるそうだが、仙涯の自由自在な画風はまさに融通無碍という言葉がふさわしい。

帰りは案の定、暴風雨のなかを歩く羽目になったが、それも一興と二人して笑いながら家路を辿った。これも仙涯の絵の効果なのかもしれない。融通無碍には程遠い身ではあるが……。

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2007.08.29

夏休みを上野で過ごす

8月3日、家族で上野へ出かける。今年は夏休みを3~6日と11~14日の2回に分けて取ることにした。今日はその初日。以前なら夏休みといえば家族で旅行に出かけたものだが、息子も高校生になり部活やらなにやら夏休みも忙しかろうと、今年は旅行はやめにした。とはいえ折角の夏休み、どこか行きたいところはないかと尋ねたところ、息子は美術館に行きってみたいと言う。ボクとツレアイにとって美術館は学生時代の定番デートコースだったし、結婚した後も息子が生まれるまではしばしば足を運んでいた。だから久しぶりに美術館を訪ねることが出来るのは大歓迎……ではあるが、ボクとしては寄席に行きたい気持ちもあり、上野の国立西洋美術館から鈴本演芸場に向かう少々ユニークなコースを巡ることにした。

国立西洋美術館は「パルマ―イタリア美術、もう1つの都」展が開催されていたが、特にイタリア美術に興味があるわけでもないので常設展とロマネスク美術写真展を観た。膨大な松方コレクションがベースになっているだけあって常設展だけでも十分に見ごたえがある。特にロダンやモネの作品が多いところが嬉しい。他にはドルチの「悲しみの聖母」やグレコの「十字架のキリスト」、エルンストの「石化した森」といったところがボクのお気に入り。息子はもっと古い作品が好みらしく、中世から17~18世紀の絵画やロマネスク美術写真展の写真にじっと見入っていた。

美術館から鈴本までは普通に歩いて15分程度。開場までまだだいぶ間があるので、西郷さんの銅像を見たり清水観音をお参りしたりと上野の山をぶらつき、山の向こうの不忍池まで足を伸ばすことにした。不忍池は丈高い蓮の葉が一面に生い茂り、ところどころに薄ピンクの大きな花が咲いて、都会のオアシスというよりも生々しく力強い生命力、野生を思わせる景色だった。折から開催されていた骨董市をひやかしながら半周ほど池の周りを散歩して鈴本に向かう。途中のコンビニでパンやおむすび、スナック菓子やお茶(ボクはワンカップの日本酒)を買い込み、開場と同時に中に入る。

そこから先は別世界。太神楽(曲芸)に漫才、奇術に落語。浮世を忘れ、ひたすら笑い、芸を楽しんでいるうちに時は過ぎ、あっという間の3時間だった。これで御代は2800円というのだから寄席は安いものだ。さて、この日、聞いた落語ではなんといってもトリの橘家文左衛門が演じた「らくだ」が素晴らしかった。大ネタである上、登場人物のクセが強く、しかも話の展開につれて立場が逆転するようなシーンもあり、高度な演技力が求められる噺だと思うが、文左衛門はしっかりと演じきっていた。その他には古今亭菊志んの「寄合酒」や桂藤兵衛の「へっつい幽霊」が面白かった。

美術館に寄席、こんな取り合わせが気取らずに自然に楽しめるところが上野のよさであろうか。それにしても、こんな取り合わせをすっかり楽しめるようになるとは我が息子も随分と成長したものだ。

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2007.07.31

石田徹也遺作集を見る

7月14日。ふと石田徹也の絵が見たくなって図書館で石田徹也遺作集(求龍堂)を借りる。石田の作品はいずれも超現実主義的な手法で日常に潜む不安や不条理、閉塞感といったものを描いている。しかし声高に暴き立てるのではなく、ユーモアやノンセンスな感覚も感じられる。だからだろうか、見ていると心がざわついて胸が苦しくなるほど悲しいのに、それでも見ずにはいられない不思議な魅力がある。

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2007.06.15

5月の読書録から

先月は志ん生の噺シリーズを一気に3冊読了。あとはコミック1冊に写真集が1冊と久しぶりに仏教からは遠い読書生活だった。その時は意識していなかったけれど、よほどリラックスしたかったんだろうなぁ。

志ん生廓ばなし(ちくま文庫)……吉原や品川といった遊郭にまつわる噺を集めたものだが色っぽい話はむしろ少ない。なんとも滑稽な「錦の袈裟」や人情味あふれる「子別れ」、痛快無比の「居残り佐平次」などが印象深かった。なかでも長編の「品川心中」は圧巻。

頭文字D・35巻(しげの秀一)……マンネリだのネタ切れだのと近頃は手厳しい批判を聞くことが多い。加えてファンの中にはバトルをもっとという声もありバトルはいいからストーリーをという声もあり、あちらを立てればこちらが立たずといった状況だ。作者がどう思っているのか気になるところだが、今のところ我が道を行くと決め込んでいるように見える。ボクとしては、まぁ、それでいいんじゃないかと思う。あきらめ半分というところもあるが、プロジェクトDもいよいよ最終局面、きっとこの先、まだまだ盛上げてくれるだろうと思うのだ。

志ん生艶ばなし(ちくま文庫)……艶噺といっても、こちらも色っぽい噺ばかりではない。女心がなんとも切ない「三年目」、知恵者が人妻の窮地を救った「紙入れ」、あだごと多き廓に誠意が実った「幾代餅」といったところが気に入った。出色の小咄の数々を一気に読める「小咄春夏秋冬」も実に楽しい。

志ん生滑稽ばなし(ちくま文庫)……「千早ふる」、「饅頭こわい」、「狸賽」、「あくび指南」などなど、誰もがどこかで耳にしたことのあるような有名な噺が多い。ボクは中でも「天狗裁き」が好き。ここに収められた噺は巷によく聞くものとは少々演出が異なり志ん生独自の工夫が感じられる。

武蔵野讃歌―田沼武能写真集……生まれも育ちも武蔵野のボクにとっては馴染み深い風景写真が多数収められている。なかでも以前住んでいた東久留米の落合川や竹林公園は息子が未だ小さかったころよく連れて行った場所。懐かしさをかきたてられる思いがした。

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