月に照らされて(四行詩日記・9月25日)
今夜は月がきれいだよ、と息子にメールしてみた
返信――確かに。でも、いきなりどうした(;^ω^)
そう尋ねられると自分でもなぜだろうと思う
携帯電話の液晶画面が妙にまぶしい
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今夜は月がきれいだよ、と息子にメールしてみた
返信――確かに。でも、いきなりどうした(;^ω^)
そう尋ねられると自分でもなぜだろうと思う
携帯電話の液晶画面が妙にまぶしい
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しじみの命をかぞえつ
夕餉のひと椀を頂けば
御御御付と呼んだ人の心を
しみじみ知る思いがする
※ 御御御付=おみおつけ
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つばめが飛ぶのを見ていると空はどんなに心地よいだろうかと思う
つばめも思うのだろうか、地を這う者、歩む者はどんな心持ちかと
いいや、そんなこと考えないから、ああして安々と飛んでいられるのさ
つばめが飛ぶのを見ていると空からそんな声が聞こえてくるようだ
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翼なきゆえ老いの身を引きずり
地を這うように浮浪う者がいる
わずかな食を分け与えている
ささやかな翼でその身命を運ぶ者らに
※ 浮浪う=さまよう
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雲ひとつない五月の空の下で
鋭い陽光が雀の羽を射抜くのを見た
それは少年が母の首を携え出頭した朝のこと
ささやかな翼すら僕らには許されていないのか
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にせものの風が吹いている
吹溜りに積もる言葉もにせものばかりだ
かく言う私はほんものだろうか
もう一人の私が風に吹かれている
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アイツに勝ちたいわけじゃないんだ
アイツは明日のオレだから
早く追いつきたい。それだけなんだ
昨日のオレに負けないために
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その一
「水をやろう。俺の持ちものはこの水ばかりだ」
「せっかくだが水なら俺も持っている。そうだ、俺の水をやろう」
そこは清らかな泉のほとり、水だけは豊富だが水しかないのだ
そんな夢を見た。どこかほのぼのとした、しかし確かに悪夢だった
その二
大切な約束があるのに電車がこない、いくら待っても
いくら待っても――いやそもそも時間が一向に進んでいない
ほっと胸をなでおろすものの安堵してもいいものかどうか
やれやれ、これも悪夢か。いつまでも続く執行猶予のとき
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日に日に膨らんでゆく花芽の速さに
四行すらもどかしく
満幹万樹おおいつくす夜桜を仰ぎ
声なく、ただ笑いがこみ上げるばかり
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たとえば自転車のベルや時候の挨拶
子どもたちの笑い声、車の警笛、うわさ話
曲がり角に棲んで
出会いを聞きながら暮らしている
ごくまれだが夜遅くに三叉路で話をしている若者らしい声を耳にすることもある。仲間同士か恋人同士か、一緒に出かけた帰り道、この三叉路で今宵の別れを惜しんでいるようだ。こうした別れは明日ふたたび出会うための準備とも言えるだろう。だが、そのまま二度と逢えぬこともないわけではないのだ。そう考えるとまして出会いの音は心地よく有難いもののように思えてくる。
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かたくなに結ぼれたものがほころび
花びらや笑顔のようなものがこぼれる
そういう季節のきらめきを春と呼ぶなら
春を急く心に春は届かない
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ふゆのあさ、にしのそら
しずみゆくまんげつ、りんとしたひかり
まだあけきらぬまちをてらし
ためらうこころをあゆましむ
ただそれだけのことでしたが、それだけで十分だと思いました。この月の光に照らされるひと時を恵まれただけで今日を生き抜くことができる、そんな気がしたのです。
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冬の朝、夜空と朝焼けとが出会うあたり
家並みの向こう、二本の樹が並び立っている
二つの種子の出会い、その瞬間はいつのことであったか
出会いと出会いとの遭遇、この奇蹟はいつまで続くのだろうか
妻も初めはピンとこなかったようでしたが、葉を落とした裸の枝を箒状にひろげるケヤキと常緑でこんもりと繁るクスノキという対照的な樹形の二本の樹が並び立つ様子は、とても印象的で紛れようもありません。――ほんとだ、こんなに近くにあったんだ。なんで今まで気づかなかったんだろう。
冬の早朝、息子の部屋の東向きの窓から外を見ると、遠く家並みの向こう、この二本の樹のシルエットが朝焼けに浮かび上がって、それはもうなんとも言えない、ささやかながら美しい景色なのです。二週間ほど前だったか、ボクも妻から教わるまでは気がつきませんでしたが、息子を起こしに部屋に入ったついでに改めて見てみると、その様子はちょっと幻想的な感じでしばし見とれてしまいました。
しかし、この二本の樹は、遠くから見ると並んで見えるだけで本当は違う場所にはえているのかもしれないと、ボクは秘かに思っていました。それだけに、二本の樹が景色の上でだけ出会っているのではなく本当に寄り添って生きているのだと知ってとても暖かな気持ちなりました。
それだけではありません。二本の樹の出会いも、ボクと妻との出会いも、ボクらがここに住んで子供を育て二本の樹と出会ったことも、そうした出会いに気づくことができた、そのことすらも、どれもこれも、その確率を思えば奇蹟のようなことだと思います。普段は忘れてしまっていますが、そうした奇蹟のような一瞬の出会いがボクらの暮らしには満ち溢れている――そう思うと、一瞬一瞬をもっと大切に生きてゆきたい、もっと丁寧に暮らしてゆきたい、そんな気持ちにさせらたのです。
奇蹟と偶然の恵みは、いつも、いつまでも続くものではないのだから……。
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冬木立の向こう遠く秩父の山なみに夕陽がさしかかる
散り敷かれた落ち葉、子犬も少年もほの朱く照らされている
光あまねし――かつて草野心平がそう記した場所で
いまこの瞬間たしかに僕も無量の光に浴している
植木に寒肥をくれ、芝生の草取り、落葉掃き、今日は久しぶりに一日中、庭仕事に精を出しました。休み明け以来なんとなく塞いだままだった気持ちを切り替えたかったのです。だいぶ気分が落ち着いてきたので、仕上げに夕方の散歩に出ようと妻を誘いましたが、あいにく片付けもので忙しかったようで断られてしまいました。
それでも一生懸命に体を動かした後の散歩は心地よいものです。ボクは一人でいつもの散歩道を南に向かいました。隣町の東村山市秋津町のほぼ北端、柳瀬川にかかる秋津橋のたもとにボクのお気に入りの場所があるのです。ケヤキでしょうか、大きな木が何本か植わっている、その木陰に、草野心平が書いた「光あまねし」の文字を刻む石碑がおかれています。ささやかに流れる柳瀬川をはさんで、対岸には一面に落葉の散り敷かれた広い雑木林があり、少年が子犬を遊ばせている、そんな場所です。
ボクはここから見る夕焼けが好きです。西の空、遠く望む秩父の山なみの更に向こうから差し込んでくる夕陽を見ているとホッとさせられます。でも、この日はそれだけではなかった。山の端に沈もうとしている太陽の、この光ばかりは誰にでも平等に、いや人間だけではなく全ての生命に対して分け隔てなく与えられている。お昼に食べた蕎麦だって、この光に育まれた命、その恵みなのだと、なんだかとても有難い気持ちにさせられたのです。あたりまえのようでいて、いつもは忘れてしまっていることですが、ほんの一瞬でもそうした気持ちを持たせてもらえたことがとても嬉しかったのです。
ボクは晴々とした気分で家路につきました。帰ったら家族揃って飯を食う。そんな普段通りの平凡なことを楽しみに思いながら……。
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懐かしいな――ふとそんな言葉が口をつく
懐かしいね――返ってくる言葉に安らぎを覚える
でもこの目でじかには見たことのないはずの景色だ
本当はただ言葉に温もりたいだけなのかもしれない
思い立ってリビングの戸棚の整理をしていたら懐かしいものが出てきました。まだ幼かった頃の息子がたどたどしい字でつづってくれたバースディカードや、五年くらい前でしょうか、ひどい熱を出して何日も寝込んでしまった時に枕元においてくれた折り紙、そんな思い出をつづったファイルです。少し手を休めてあれこれ当時のことを思っているうちに、ふと「懐かしさ」ってなんだろう、と気になってきました。
懐かしい――なんと心地よいことばなのでしょう。一人つぶやいても、誰かとかわし合っても、心がポッと暖かくなってきます。最近は、この感じが嬉しくて、ついつい「懐かしい」という言葉を使いすぎているような気もします。例えば先日観た映画『ALWAYS 三丁目の夕日』。何度も何度も「懐かしいねぇ」と言いかわしながら家族で観ていました。この映画の魅力の本質は懐かしさであるようにさえ思えたほどです。でも、ちょっと冷静になってみると、この映画が描いた昭和33年にはボクは未だ生まれていなかったし、ボクが育った埼玉のベッドタウンと映画の舞台となった東京の下町とでは雰囲気もずいぶん違っていたはずです。それでも懐かしくてたまらない感じがしたのは、作った側の腕がよいのか、それとも見る側がよほど懐かしみたがっていたのか。そう思うとちょっと不安になります。ボクは未来に明るいものを見る気持ちが薄れているのではないかと……。
そんなことをボーっと考えているうちにすっかり日は暮れてしまい、とうとう戸棚は片付きませんでした。
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時流に乗るのも才覚か
いや乗り損ねたのが災難か
ならば災難に逢うがよし、と
良寛を気取るにも才度が足らぬ
災難に逢う時節には災難に逢うがよろしく候。死ぬ時節には死ぬがよく候――震災に見舞われた友人に良寛が書き送った手紙の一節。これが「災難をのがるる妙法」なのだそうです。
1月5日は仕事始めでした。一年の計を計ろうと、こし方ゆく末に思いを馳せていたところ、ふと、社内の時流からずれてきてしまっているような気がしました。乗り損ねた身の不幸を嘆いてみたり、いや、おのが才覚の及ばぬせいと我が身をせめてみたり、つまらないことにクヨクヨするなと自分に言い聞かせてみても、才覚に加えて度量も足らないらしく、しだいに先行きの不安までつのり……。なんだかどうにも気勢の上がらない仕事始めになってしまいました。これでは娑婆遊び上手とは程遠いですね。
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マガモ、カルガモ、オナガガモ
ひとつ池に暮らしていても
仲良さそうもなく、悪そうもなく
ただ一つの池に一緒に暮らしている
子供が小さな頃には毎週のように通っていた航空公園ですが、近ごろは年に数回、それも妻と二人で散歩することが多くなりました。1月3日も受験生の息子は塾通い、冬木立の様子でも見に行こうかと二人で出かけました。ぐるりと一周歩いて池のほとりに立つと鴨がたくさん羽を休めていました。その様子を見ていると、なんとなくほほ笑ましく、心が落ち着いて、時のたつのも忘れてしまいます。
マガモにカルガモにオナガガモ、一緒に暮らす彼らはお互いにどんな存在として認識し合っているのだろう、ふと、そんなふうに思いました。アメリカ人がいて、日本人がいて、それと同じじゃない、と妻は言いましたが、それにしては鴨のほうがはるかに淡々としているように感じられます。子供が菓子を投げ入れれば鴨も我先にとエサにありつこうとしますが、菓子が尽きてしまえば、それっきり。争うでもなく、かといって友愛のようなものも感じられません。欲に加えて主義主張やら愛憎やらを持ち込む人間とは大違い。
もっとも、そんなつまらない話をしても気づまりなだけので、ボクらはただじっと鴨の様子をみつめていました。これも、オシドリさながら、長年、ひとつ家に暮らしゆくための心得といったところでしょうか。
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人波をかき分け横入り
なにを急いで願掛けなさるか
忿怒の御姿お不動様を恐れぬか
ならばどなたに願掛けなさる
初詣というと、まずは元日に地元の鎮守・日月神社、二日に川越の成田山別院にお参りするのが、いつのまにか我が家の恒例となっています。今年は高校受験を控えた息子のために川越大師・喜多院と子育て呑龍・連馨寺にも参詣しました。成田山でひいた御神籤は吉。誠実に努力すれば報われるとのこと。一年間、ずっと忘れずにいたいと思います。
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元日、まだ家人の目覚めぬうち
ひとり庭に降り立ち寒気に浴する
「去年今年貫く棒の如きもの」はあるか
鵯がひときわ鋭く啼く、「私」を糺すように
(引用:高浜虚子、昭和二十五年作句)
あけましておめでとうございます。
年末年始を迎えると虚子の晩年の句「去年今年貫く棒の如きもの」を思い出します。いくたび年の瀬を渡ろうと、どれだけ新年を積み重ねようと、決して変わることなく歳月を貫き通すもの。時世の移り変わりも、自己の成長・成熟、そして老い、をも越えて、「私」を掻き立て燃え立たすもの。そのようなものが、お前にはあるか、と問い質されているように思われるのです。
今年こそ胸を張って虚子に答えられるような「私」でいたい。ボクは今年もそんなことを想いながら元日を迎えました、宿酔と年酒とのわずかな合間でのことでしたが……。
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