2008.06.18

池田満寿夫の『般若心経』を観る

6月1日。週末恒例のランニングから帰宅後、軽いストレッチを済ませ、膝を冷やしながら、池田満寿夫の作品集『般若心経―池田満寿夫の造形』(同朋舎出版、1995)を観た。官能的な作風で知られる池田が晩年に取組んだ、般若心経をテーマとした作品を集めたものだ。先月11日に放映されたNHKの新日曜美術館でその存在を知り、さっそく市立図書館で借りてきた。

池田の心経シリーズはその殆どが陶芸作品である。小さな陶片に般若心経を一文字ずつ刻した「心経陶片」、野山の石仏の面影を宿した「地蔵」(仏像)、シルクロードの遺跡を思わせるような「佛塔」、そしてシリーズの最後を画家の本領で飾った「佛画陶板」。池田は59歳からの2年間に1000余りの作品を作成し、そのおよそ2年後にこの世を去った。

『般若心経―池田満寿夫の造形』にはそれらの多くの作品の写真が収録されているの加え、池田の般若心経をめぐる言葉がいくつか添えられている。なかでも心に残ったのが次の言葉だ。

物というのはあったって、それを見る者がいなければ、ないと同じ。物があっても、それを認める心がなければ、ないと同じじゃないか。物も心もないところには何の悩みもない。すべては空だということ。これは、仏教で見つけた、非常にユニークで素晴らしい認識だと思います。

モノ作りの人がモノを作りながらこのような認識に至ったということが非常に興味深い。また池田は巻末に納められたエッセイで「私にとって宗教とはある意味では発見だ」とも言っている。
なぜか佛の顔をとってみても、日本的な顔にならなく、インドやジャワあたりの古佛に似て来たのに、自分でも驚いているのである。……中略……私のなかに古代原始の造形を再現しようとした意図があったことは確かだが、砂漠や遺跡のなかから発掘されたイメージが濃厚だったからかもしれない。私にとって宗教とはある意味では発見だからだ。

これらの言葉を併せ読むとき、般若心経シリーズは池田の写経修行、作仏修行だったのではないか、とボクには思われた。池田は作品作りを通じて般若心経を学び理解したと考えたのだ。炎の力を借りるがゆえに偶然性に依拠するところが大きく、また金属や石に比べ壊れやすい陶芸は、池田にとって無と空とを理解するのにうってつけの素材であったであろう。

般若心経シリーズは散逸することなく全作品が三重のパラミタミュージアムに展示されているそうだ。ある実業家が全ての作品を買い取り、この美術館を運営する財団に寄付したらしい。それは一種の布施行とも考えられる。ボクもその功徳にあやかって、この作品を目の当たりに見てみたいものだ。

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2008.01.22

『わが屍は野に捨てよ』を読む

1月15日。佐江衆一の『わが屍は野に捨てよ:一遍遊行』(新潮文庫)を読む。盆踊りの起源ともされる踊り念仏を全国に広めた、時宗の祖師、一遍上人の賦算遊行の人生を描いたものだ。玄侑宗久の解説にも記されている通り、この作品は圧倒的な迫力をもって一遍の波乱に満ちた生涯を追体験させてくれる。そのため一遍の教義、思想を、そのよってきたる一遍の生立ちや社会的な背景と重ね合わせながら理解することができる。法然や親鸞といった同じ浄土門の祖師たちや日蓮の動向にも触れており、当時の一大ムーブメントであった鎌倉新仏教全体の雰囲気が感じられるところもよかった。また、以前、読んだ柳宗悦の『南無阿弥陀仏』が一遍の思想の多大な影響の下に書かれたものであることを改めて認識させられた。

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2008.01.17

『禅的生活』を読む

1月7日。玄侑宗久の『禅的生活』(ちくま新書)を読む。

本書は、作家であると同時に臨済宗の禅僧でもある玄侑が禅の世界観を紹介し、禅の考え方・感じ方を日常生活に生かしてゆく術を説いたものだ。といっても本格的な教学を語るものではなく、犬のナムと猫のタマを登場させたり、脳科学の最近の知見に触れたり、ボクのような余り禅に馴染みのない者にも親しみやすいよう、随所に工夫がこらされている。それでいて著名な禅語がふんだんに盛り込まれているので臨済宗の入門書としても役立ちそうだ。

本書は禅の悟りを語りながら説教じみていないところがよい。玄侑は、既に悟りを開いた先達として上からの目線で語るのではなく、読者の横にそっと肩をならべるようにして語っている。また巻末には禅語の索引が用意されており、原典も示されていて便利そうだ。こうした細やかな心遣いが初学者にとってはありがたい。

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2008.01.08

初富士

1月2日。ここ数年、正月2日には川越へ行くことが多かったが、今年は趣向を変えて市内の山口観音(吾庵山金乗院)に参詣することにした。山口観音は奈良時代に行基が開いたとされる古刹で、その後、弘法大師が東国巡錫の折に立ち寄り霊泉を得たとされる。

本尊の秘仏・千手観音に手を合わせた後、マニ車を回しながら本堂を一巡り。お守りを頂いて裏手の五重塔に向かった。普段は扉が閉ざされている塔だが今日は特別に開扉されており、初めて中に入ることができた。狭い階段を登り露台から外を望む。眼下に広がる狭山丘陵。遥か秩父の峰の向こうには富士山を望むこともできた。

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五重塔には聖観音像の頭部が納められている。かつて、この場所には奥の院があり聖観音像が納められていたが、太平洋戦争末期の金属不足により軍から供出を求められ、当時の住職は止むなくこれに応じたものの、この頭部のみは忍びがたく本堂に隠し置いたのだそうだ。その後、五重塔が再建された折に聖観音像の頭部は塔内に戻されたが、以来、思いがけない場所に残された戦争の爪あとを拝観者に示し続けてきたのだ。

初富士のめでたさも世の中が平和であればこそ。紛争の絶えない現代にあっては、めでたさも中くらいなり、といわざるを得ない。ボクは聖観音に手を合わせ平和を祈った。

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2007.11.29

『日本仏教史』を読む

11月20日。末木文美士の『日本仏教史―思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)を読む。日本人が外来思想である仏教をいかに受容し、いかに独自の展開をもたらしてきたのか、こうした観点から書かれたまさに思想史としての仏教史である。渡辺照宏の『日本の仏教』(岩波新書)ともあい通じるところがあるが、より深く詳細な内容となっている。また『日本の仏教』が日本仏教のあり方に対し批判的な視点から書かれているのに対して、『日本仏教史』はより客観的な、むしろ日本人がなぜ仏教を独自のものに変容させてきたのか、を掘り下げることに力点を置いている。本書は日本仏教を理解するためにはもちろん、日本史を理解する上でも大いに役立つ一冊だと思う。

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2007.10.30

『親鸞の告白』を読む

10月8日。梅原猛の『親鸞の告白』(小学館文庫)を読む。

梅原は親鸞を「謎の思想家である」という。本書に導かれつつ、その「謎」の所在をさぐってみると:

  1. 法然のような明晰な論理によってではなく、黒々とした深い情念もそのままに自己を突詰めてゆく親鸞の方法論
  2. 道徳や知識の延長上にはない宗教の本質とも言うべきパラドクスを強烈にはらんだ親鸞の思想的境地
  3. 自らに妥協を許さず行動の純度を高め理論を肉体化してゆく親鸞の思想的実践

といったところにあると思われた。また同時にこれらは、現代人が親鸞に惹かれる、その魅力の源泉でもあるのだろう。空海は人間の心のプラスの極にあり、親鸞はマイナスの極にあると梅原は言う。人は、心がマイナスの状態にあるときにこそ、外の世界ではなく自己の内側を探求することに希望を見出すものなのだろうか。

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2007.10.19

9月の読書録から

9月はなにかとバタバタしていたせいか3冊しか読めなかった。もとより寡読とはいえ、もう少し本に親しむ時間を作りたいものだ。

お経の話(渡辺照宏、岩波新書)……9月9日読了。仏教経典の成立に至る歴史のあらましや、般若経、法華経、浄土三部経などの主要な大乗経典の概要が紹介されている。これで『仏教』『日本の仏教』と読み進めてきた渡辺氏の岩波新書三部作を全て読み終えたことになるが、いずれもボクのような初心者には大いに役立つ内容であった。

グループ・コーチング入門 (本間正人、日経文庫)……9月12日読了。コーチング言えばコーチ対クライアントのワン・オン・ワンが一般的だが、職場でのコーチングとなるとグループで実施したほうが効果・効率が高まる場合もある。そのように説く本書は、一般的なコーチングの技法に加えグループコーチングならではの技法やワン・オン・ワンとの組み合わせ方などにも触れており大いに参考になった。

納棺夫日記 (青木新門、文春文庫)……9月26日読了。遺体の湯灌・納棺の仕事を通じて様々な人の生き死にに触れたことをきっかけに、自らの人生を振り返り、建て直し、阿弥陀信仰を得るに至った著者の半生記。文春文庫版には、『納棺夫日記 』が予想以上の反響を呼んだことから数々の思いがけない経験をするに至った顛末を記した「『納棺夫日記』を著して」も収録されており興味深い。

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2007.10.09

8月の読書録から

夏休みがあったせいだろうか。8月はマンガを一気に6冊も読んでしまった。一方、詩のほうは相変わらずお留守のまま。いやはや、なんとも。

志ん朝の落語【4】(ちくま文庫)……8月7日読了。粗忽者に碁狂い、小言屋などなど、暴走し始めたら止まらない奇天烈な人物たちが巻き起こす珍騒動を活き活きと描いた噺13篇が収められている。どれをとっても滑稽極まりなく文句なしのおかしさなのだが、中でもボクのお気に入りは「野晒し」と「妾馬」。いずれも主人公の並外れたお調子者ぶりがなんとも魅力的だ。

空海の思想について(梅原猛、講談社学術文庫)……8月16日読了。梅原氏によると空海の説いた密教は「世界をよく悟り、その世界によく遊べ」と教える生の哲学なのだそうだ。空海は「自ら生きることは楽しい。他人を利することもまた楽しい」と笑う、そういった「笑い声の愛好者」としての空海を梅原氏は心から愛するのだと言う。この小さな作品からはそうした空海の密教思想の魅力が伝わってくる。

遥かなる甲子園【1】(戸部良也・ 山本おさむ、小学館文庫)……8月19日読了。沖縄の聾唖の子供たちが野球に取り組む姿を描いた作品。実話に基づいており当時の社会的背景も描かれている。読んでいて目が潤んできてしまった。しかし良くも悪しくも美談に留まっているきらいがあって今のところ更に読み進もうという気になれない。もっとも稀代の名作『リアル』を読み始めてしまったせいかもしれないが……。

リアル【1】【5】(井上雄彦、集英社)……8月24日読了。こちらも障害者スポーツを題材にしているが決して美談に終わらせないところが、さすが井上雄彦である。何巻であったか覚えていないが、主人公が「バスケやりてー」と叫ぶシーンがあって、「ボクだって走りてー」と思わず心のうちで叫んでしまった。こういう圧倒的なリアル感が井上の作品の魅力といえようか。

金哲彦のランニング・メソッド(高橋書店)……8月28日読了。腰を痛めてしまったことをきっかけに少しランニング・フォームについて考えてみたいと思い購入。要は丹田を意識し肩甲骨と骨盤を連動させて全身で走る、ということのようだが、ボクの場合、腹筋・背筋といった体幹と肩の筋肉を強化することから始めることが必要そうだ。

入門ビジネス・コーチング(本間正人、PHP研究所)……8月30日読了。個々の部下のやる気と力を最大限に引き出し、同時にチームワークを向上させる。ボクが職場でいま取り組んでいるのはそういったことなのだが、この本はそのために何が必要か、大きなヒントをくれたように思われる。あとは実行あるのみ。

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2007.08.16

7月の読書録から

先月はマンガを含め4冊と相変わらず寡読である。まして久しく詩書にも触れておらず我ながらこれでよいのかと思う。

志ん朝の落語(3)・遊び色々(ちくま文庫)……7月3日、読了。同じちくま文庫の「志ん生の噺」シリーズを読み終えてしまったので今度は志ん朝を読んでみることにした。志ん朝は子供のころからテレビで慣れ親しんでいるので読んでいると自然に志ん朝の声が頭の中に再現されるようだった。さて本書には廓遊びを中心に芸ごとや花見、物見遊山、子供の悪戯など、遊びにちなんだ噺12編収録されている。なかでも「愛宕山」や「居残り佐平次」、「付き馬」、「花見の仇討」といったところがボクのお気に入り。志ん朝のからっと明るい江戸弁は実に国宝モノだったなぁと改めて思わせられた。

法華経入門(菅野博史・著、岩波新書)……7月10日、読了。食わず嫌いというか日蓮宗や法華経はなんとなく敬遠してしまうボクであるが、先入観で毛嫌いするのもどうかと思い本書を読んでみることにした。その結果、少なくとも法華経については宗教文学として面白そうだと感じるようになった。法華経には随所に法華経が登場し、さまざまな仏が法華経を語り、さまざまな菩薩が法華経を受持し弘通に勤めるという。法華経の功徳が法華経の中心テーマの1つになっているらしい。そこで国学者の平田篤胤は法華経は能書きばかりで肝心の丸薬がないと評したそうだが、ボクにはむしろそこが面白いのだ。また菩薩行と釈尊による救いを中心にした教説にも共感を覚えるところがあり大きな収穫を得た思いがした。

「部下を動かす!」スピード・コーチング(中島孝志・著、講談社)……7月18日、読了。これでも職場に行けば、一応、上司と呼ばれる身である。たまにはそれらしい勉強もしなくてはと思い図書館で借りてきた。「大善は非常に似たり。小善は大厄に似たり」という言葉が引用されていたが、なるほど自分はこれまで答えを与えすぎてきたと思う。これでは自ら考える機会=能力と自信を高めるチャンスを部下に与えることができない。肝に銘じておきたいと思った。

バガボンド・26巻(井上雄彦・著、講談社)……7月27日、読了。待ちに待った『バガボンド』の新刊である。前巻で館主・伝七郎を斬られた吉岡一門が仇討ちを挑んだ一乗寺下り松の戦いを描き、巻頭から巻末まで殆どのページが斬り合いと死体とで埋め尽くされている。それでも惨たらしさや醜さからは程遠い作品となっているのは作者が武蔵と吉岡の門徒たちの人間を描いているからなのだろう。次巻が待ち遠しい。

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2007.07.09

『正法眼蔵随聞記』を読む

6月22日。『正法眼蔵随聞記』(懐奘・編、 和辻哲郎・校注、岩波文庫)を読む。曹洞宗の開祖・道元の言行録だが、道元が伝えた師・栄西の言動も含まれていて、古文に親しみの薄いボクにとってはよく区別がつかなかった。それはともかく印象に残った言葉をいくつか引いておく。

呵責すべきを呵責すとも毀誉謗言の心を発すべからず
仁ありて人に謗ぜられば愁ひとすべからず
予があたふると思うことなかれ。皆是れ諸天の供ずるところなり
其の人の徳を取りて失を取ることなかれ
切に思ふことは必ずとぐるなり
人皆生分あり、天地是れを授く

いずれも仏教ということを抜きにしても処世訓・人生訓として尊い言葉であり耳にも馴染みやすい。しかし、師や主に逆らおうとも父母妻子や係累を捨ておこうとも出家すべきであり、それこそが真の忠であり孝であり慈しみなのだ、とする道元の厳格な出家主義にはちょっとついていけないものを感じざるを得ない。

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2007.06.18

『般若心経・金剛般若経』を読む

6月1日。『般若心経・金剛般若経』(中村元・紀野一義訳註、岩波文庫)読了。般若心経は2年ほど前に立松和平の訳した隅寺版を読んだことがあるが金剛般若経は初めて。

久しぶりに読んだ般若心経の印象は、なんとなく分かりそうでやっぱり分からない。分からないながらもなんとなく分かりかけた気がする。この、分かりそうで分からない感じ、分からないけど分かりそうな感じ、が般若心経の人気の秘密のような気がする。

いっぽう金剛般若経は本当に分からない。ところどころに「う~む。なるほど」と呻らせる言葉が散りばめられてはいるのだが総じてはやっぱり分からない。しかも手がかりもなくお手上げという感じの分からなさだ。訳者・中村元の解説にも

自分の体験している思想をどう表現してよいのか、適当な言葉が見つからなくて、もどかしさを感じている若者のことばのようなおもむきがある。
と記されているくらいだからボクのような初学者が分からなくても仕方のないことなのかもしれない。

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2007.05.24

4月の読書録から

4月も相変わらず仏教モノばかりで……。

『未完成』(住宅顕信、春陽堂文庫)……4月2日読了。22歳で出家、浄土真宗の僧となり、ほどなく結婚。翌年には白血病を発病し、一児をもうけるも離婚。病室で子供を育てながら、自由律俳句の創作に没頭。しかし、わずか三年後、25歳で永眠。その壮絶な人生を思うと一句一句が重く切ない。

『蓮如』(五木寛之、岩波新書)……4月5日読了。ボクはどうも浄土真宗には親しみと同時に違和感を感じてしまう。前にも書いたことだが、念仏によって誰もが往生できると説く一方でストイックなまでに雑修を否定する、ここがどうもひっかかる。それに、このストイックさにも関わらず多くの信徒を得ていることも不思議だ。その違和感、謎を解く鍵を本書は与えてくれた。親鸞が「実存的な苦悩」に立脚し思想の深みを追求したのに対し、蓮如は民衆の通俗的な「悲苦」を救うことに眼目をおいた。それは蓮如自身の俗っぽさによるものであり、また、そうした俗っぽさが浄土真宗を広く普及させることにもなったというのだ。親鸞とはまた違う意味で蓮如も深いなぁ。

『仏教』(渡辺照宏、岩波新書)……4月20日読了。前月に読んだ『日本の仏教』とおなじ著者によるもの。仏教はインドの宗教であり、インド仏教を知ることこそが仏教を知ることであるとの立場から書かれている。中国や日本の仏者の貢献も無視するわけではないようだが、伝播の過程で曲解され、あるいは失われたものが多いと考えているようだ。「仏教が人心にもたらした最大の贈り物は慈愛の精神であった」との言葉が印象的。

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2007.04.09

3月の読書録から

3月も相変わらず仏教と落語の本ばかり読んでいた。ちょっと詩がお留守に過ぎないか。我ながらそう思う。

『お経 浄土真宗』(早島鏡正・田中教照(編)、講談社)……3月5日読了。柳宗悦の『南無阿弥陀仏』を読んで浄土真宗に興味を持った頃にたまたまブックオフで本書を見つけ購入。仏教を理解するには経を読むのが早道と思った次第だ。おかげでだいぶ浄土真宗に対する理解は進んだと思うのだが、なんとも言えない違和感を感じるようにもなった。誰もが往生を得られる易行を説く浄土真宗だが、潔癖主義というか、教条主義というか、こと教義に対してはストイックなまでな忠実さを求めるところがあって、そこがどうも易行とはそぐわない感じがしてしまう。う~む。

『日本の仏教』(渡辺照宏、岩波新書)……3月13日読了。日本における仏教の受容と独自の展開とを展望しつつ、そうした歴史的経緯性と結びついた日本仏教の特性を解説している。が、ちょっと手厳しすぎるのではないか、というのが、ボクの率直な感想。積極的な面も評価していないわけではないのだが、かなり否定的な見方に偏っている気がする。もちろん日本仏教の発展を願ってこその辛口ではあるのだろうが……。一方、半世紀前に本書が突きつけた課題に対して日本仏教界はどのように応えてきたのか、これも気にかかることではある。

『バガボンド(25)』(井上雄彦、吉川英治(原作)、講談社)……3月23日読了。待ちに待った『バガボンド』の最新刊。勤め帰りにふと立ち寄ったコンビニで買い、電車の中で一気に二度も読んでしまった。雄々しく散ってゆく伝七郎も人、女々しく生き残る又八も人、求道のために人を切り、誰も届かぬ高みに独りたたずむ武蔵も人。みな切なく、みな尊い。

『志ん生長屋ばなし―志ん生の噺〈4〉』(ちくま文庫)……3月29日読了。江戸の落語といえば長屋がつきもの。おっちょこちょいもいれば、うすぼんやりもいる。喧嘩っ早いのもいれば、お人よしもいる。大家も店子もご隠居も、皆ありのままを生きているところが面白い。ことに「三軒長屋」、「大山詣で」、「らくだ」が気に入った。

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2007.03.01

2月の読書録から

3月1日。先月は公私に亘って余裕がなく余り日乗を録すことができなかった。そこで先ずは2月に読んだ本についてまとめて記しておきたい。

『南無阿弥陀仏』(柳宗悦、岩波文庫)……2月7日読了。柳氏が自らの仏教思想をまとまった形で記したものとしては他に類がないとのこと。また柳氏の民芸運動の理念と仏教思想との密接な関わりを垣間見ることもでき興味深い。浄土宗から浄土真宗(あるいは真宗)、そして時宗へと受継がれた、阿弥陀信仰と念仏行を核とする仏教、いわゆる浄土門の入門書としても大いに参考になった。

『バカ日本地図―全国のバカが考えた脳内列島MAP』(一刀、技術評論社)……2月10日読了。インターネット上で展開された「バカが思い描いている日本地図をつくる」プロジェクトを書籍化したものだ。このプロジェクトに関する新聞記事を読み面白そうだと思っていたところ、息子も友達から話を聞いて欲しくなったというので、二人で小遣いを出し合って買うことにした。読んでみると確かに面白い。北海道や九州など自分の生活圏から遠い地域の地理について自分がどれだけ無知であるか、そのくせ他の地域に住む人が関東の地理を知らないことをどれほど「バカ」と思ってしまうか、そのアンバランスさを思い知らされた。好企画である。

『梅原猛の授業 仏教』(朝日新聞社)……2月18日読了。梅原氏が中学生を対象に行った授業を収録したもの。宗教とは何か、なぜ宗教が必要なのか、を生徒たちに考えさせることから出発して、仏教導入期の聖徳太子、平安時代の最澄・空海、そして法然・親鸞の浄土門や道元・栄西の禅宗、日蓮の法華経信仰など多様に咲き誇った鎌倉仏教にいたる日本の仏教史を紹介している。宗教対立が平和を脅かし、地球環境の破壊が破局的な段階にまで至った今日、殺生を禁じ他の宗教にも寛容で多様性を持つ仏教が見直されるべきだとの梅原氏の主張は、図式的・短絡的との批判もあるかもしれないが、頷ける面も大いにあるとボクには思えるのだ。

『志ん生人情ばなし―志ん生の噺〈3〉』(ちくま文庫)……2月21日読了。落語を活字で読むのは始めてのこと。気づいてみれば、いつのまにかに、落語っぽい口調や声を頭の中で再生するような読み方をしていた。面白いものだ。さて所収14席はいずれも甲乙つけがたいが、やはりボクにとっては馴染みの深い「井戸の茶碗」と「抜け雀」が好きだ。そう言えば、先日、久しぶりにポッドキャスト落語のにふ亭を聴いたら三遊亭歌彦が「抜け雀」を演じていてなかなかよかった。これも保存版に入れておこう。

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2007.01.18

娑婆遊び

1月4日。TVドラマ『佐賀のがばいばあちゃん』(フジ)を見る。先祖代々続いてきたという貧乏暮らしを強く明るく生き抜いてゆく「ばあちゃん」の逞しさ、そんな暮らしのなかでも決して忘れることのない家族への深い愛情、周囲の人々への暖かな思いやり。泉ピン子の好演もあってそういったものがしっかりと伝わってきた。

ところで新年というと思い出す句がある。ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び――もう一生分は生きてしまったのだから、これから先はおまけのようなもの、つらいことがあろうと悩みがあろうと命があるだけで丸儲け。還暦を向かえた小林一茶がその心境をユーモアを交えながら詠んだものだ。この句の背景には一茶の深い阿弥陀信仰があるという。阿弥陀さまのお力で浄土に往生することが約束されていることを思えば、苦しみ、悩みに満ちた娑婆での暮らしもつかの間の遊びのようなものだ、ということらしい。

「うちは明るい貧乏だからよか」と言い切る「ばあちゃん」も娑婆遊びにたけた人なのだろう。まったく「がばい」(=すごい)人たちだ。

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2005.07.20

さらにタネあかし、13ページの7行目

われながらよくもまあ飽きないものだ。今日の13ページの7行目はこちら。

ひばりさんは舞台から一人一人の観客に向かって、その顔を見つめるように視線を

瀬戸内寂聴の『あきらめない人生――寂聴茶話』から。このあとは「あてて歌うのです。」と続く。もちろん「ひばりさん」とは美空ひばりのことだ。

もう随分と昔のことだが職場の女の子の結婚式に部の全員でハンドベルを演奏したことがあった。当時、ボクが所属していた部署は10名前後の女性と男3人からなる「女の園」で、女性たちは主役のハンドベルを分担し、男どもはというと、部長が挨拶を、課長が指揮者を、ボクは不慣れなクラシックギターで伴奏を受け持った。

にわか楽団を率いた課長は大学時代にマンドリン部で指揮をした経験のある人で、ゼロからの練習をどうにかこうにか「エーデルワイス」まで導いてくれた。演奏者全員に気を配り、その一人一人に目線と指揮棒だけで語りかけてくる……指揮者というのはそういうものなのか、と思い知らされた。

膨大な数の観客の一人一人を見つめ視線をあてる。そんなことが可能なのかどうか、ボクには分からない。だが豊かな才能を持った人が舞台に立つとき観客はそのような感じを持つものだとはしばしば聞く話だ。美空ひばりならそんなことがあっても不思議はない。少なくともボクにはそう思える。

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