池田満寿夫の『般若心経』を観る
6月1日。週末恒例のランニングから帰宅後、軽いストレッチを済ませ、膝を冷やしながら、池田満寿夫の作品集『般若心経―池田満寿夫の造形』(同朋舎出版、1995)を観た。官能的な作風で知られる池田が晩年に取組んだ、般若心経をテーマとした作品を集めたものだ。先月11日に放映されたNHKの新日曜美術館でその存在を知り、さっそく市立図書館で借りてきた。
池田の心経シリーズはその殆どが陶芸作品である。小さな陶片に般若心経を一文字ずつ刻した「心経陶片」、野山の石仏の面影を宿した「地蔵」(仏像)、シルクロードの遺跡を思わせるような「佛塔」、そしてシリーズの最後を画家の本領で飾った「佛画陶板」。池田は59歳からの2年間に1000余りの作品を作成し、そのおよそ2年後にこの世を去った。
『般若心経―池田満寿夫の造形』にはそれらの多くの作品の写真が収録されているの加え、池田の般若心経をめぐる言葉がいくつか添えられている。なかでも心に残ったのが次の言葉だ。
物というのはあったって、それを見る者がいなければ、ないと同じ。物があっても、それを認める心がなければ、ないと同じじゃないか。物も心もないところには何の悩みもない。すべては空だということ。これは、仏教で見つけた、非常にユニークで素晴らしい認識だと思います。
モノ作りの人がモノを作りながらこのような認識に至ったということが非常に興味深い。また池田は巻末に納められたエッセイで「私にとって宗教とはある意味では発見だ」とも言っている。
なぜか佛の顔をとってみても、日本的な顔にならなく、インドやジャワあたりの古佛に似て来たのに、自分でも驚いているのである。……中略……私のなかに古代原始の造形を再現しようとした意図があったことは確かだが、砂漠や遺跡のなかから発掘されたイメージが濃厚だったからかもしれない。私にとって宗教とはある意味では発見だからだ。
これらの言葉を併せ読むとき、般若心経シリーズは池田の写経修行、作仏修行だったのではないか、とボクには思われた。池田は作品作りを通じて般若心経を学び理解したと考えたのだ。炎の力を借りるがゆえに偶然性に依拠するところが大きく、また金属や石に比べ壊れやすい陶芸は、池田にとって無と空とを理解するのにうってつけの素材であったであろう。
般若心経シリーズは散逸することなく全作品が三重のパラミタミュージアムに展示されているそうだ。ある実業家が全ての作品を買い取り、この美術館を運営する財団に寄付したらしい。それは一種の布施行とも考えられる。ボクもその功徳にあやかって、この作品を目の当たりに見てみたいものだ。
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